掲載:machi-iro magazine #50

泉和子50
2011, 9, 6 笠利町佐仁にて 撮影 泉和子

〜先人の教え〜

 — 備えあれば憂いなし — という諺がある。

 日頃から準備をしておけば、いざというとき心配がないということだ。

 台風の常襲地帯に位置する奄美群島の島々。離島に住む私たちの暮らしは、台風発生時には、本土からの物資流入が途絶え、停電や断水など、ライフラインの切断が余儀なくされる。お店から生鮮食料品が消え、食糧難に陥ってしまうという考えがいつの間にか身についている。とはいえ、水や食料の保存、蓄えは出来ているだろうか。

 2010年10月には、奄美大島で記録的な集中豪雨が発生。河川の氾濫や土砂災害、道路交通網、情報通信網が途絶するという事態になった。あの時ほどでなくても、がけ崩れなどで集落と集落間の交通が遮断されることがよくある。様々な事柄を想定して、水や食料の備蓄をしておくことが大切である。と同時に、普段から避難先の確認や避難時のシュミレーションなどをすることが身を守る最善の方法である。

 歴史的に琉球、薩摩、アメリカと様々な行政統治が成された奄美の島々。その中で、奄美の食文化は混ざり合って多様化してきた。薩摩藩統治時代は黒糖生産を強いられ、平地はサトウキビ畑へと変わった。島の先輩たちは、知恵を絞って鍬を握り、山の斜面に段々畑を耕して甘藷を植えた。甘藷は赤土でも栽培しやすい。品種の違う甘藷を、時期をずらして植える。通年、主食になり、副菜にもする。そして、畑の周囲にソテツを植えた。土留めのため、山の斜面にも植えた。旧暦1月2日には、ソテツを植樹し絶やさないようにする年中行事として伝えてきた。ソテツは、サイカシンと呼ばれる毒を抜くと、幹と果実の澱粉を食することが出来る。その時代を生き抜いた先人たちは、ソテツを発酵させ、水に澄まして澱粉を取り、毒を抜く方法をどうやって学んだのであろうか。第二次世界大戦後も食糧難に立ち向かい、知恵を絞って食べられるものを考え出し、日々の糧とした。ソテツや甘藷のほか、タピオカやアロールートを栽培、澱粉を餅や粥にした。アメリカからの配給物資は一時的で、好まれなかったのか、欧米化はそれほど定着しなかった。やはり、身近で狩猟採集できる新鮮なものを、食材として選択したといえる。

 自然の恵みは様々な加工方法により、保存食に生まれ変わる。つわぶき、たけのこ、あざみなどは茹でて塩漬けに。つわぶき、大根、人参、パパイア、海藻、魚などは天日干しにして乾燥させる。野菜類、肉類、魚、貝、タコ、イカ、カニ、卵などは味噌漬けにして保存した。まさに島は、自然食や発酵食、保存食の宝庫である。

 その頃は、通気性を考えた高床式食物倉庫「高倉」も機能していた。すべりの良い柱材は穀類などをネズミの害から守ってくれた。塩豚は桁に吊るされ、風に揺れ、時間の経過とともに熟成された。1年を通して季節の食材を、段取り良く準備してきたから急な災害にも対応できたのだ。保存食は非常食の機能を兼ねる。島の先輩たちの暮らしに学ぶことは多い。今を生きる私たちも、そのようにありたい。