懐かしい母愛加那に再会した後、台湾へと向かう菊次郎

菊次郎 台湾 Machiiro 記事写真 1
日本統治時代の宜蘭庁長西郷菊次郎が建設した、宜蘭市内にある「宜蘭設治紀念館」
撮影:惠 枝美

 その目的地は不穏な空気に満ちていました。

 今でこそ親日国として知られる台湾ですが、菊次郎が辞令を受けた明治28年(1895年)当時、台湾の治安は現在の私達には想像も出来ないほど乱れていたのです。

 原因は前回も少し触れた通り、その前に統治していた清(現在の中華人民共和国)が台湾の人々に統治権を日本に渡すことを全く知らせていなかった事が発端でした。

 当時、清は台湾の人々に農作物を豊富に作らせながら最低限の開発整備しか行わず「化外の地」として侮蔑的に扱い、力で抑えつけてはいるものの台湾の島民達に対してはとても友好的と言いかねる対応を取っていました。

 現代でしたら「上層部が変わるなら、少しは状況が良くなるかもしれない」とポジティブに考えるかもしれませんが、台湾はそれまで200年以上にわたり強硬に支配されていたのです。

 「日本に統治されると、今よりもっと暮らしが悪化するかもしれない」と不安に思う人々に対し、清朝の役人と中国系移民の一部が「日本軍は婦女を暴行し、家屋を荒らして田畑を奪う」と風評を撒き散らし、「日本に支配されるくらいなら独立しよう」と日本に対しての反抗(抗日運動)を煽っていました。

 実際、菊次郎が政府への台湾南部の視察報告を行い、報告するために帰国していた7月から9月の間も台湾民主国の独立を主張する民軍との乙未(いつび)戦争中でした。

 日本軍百六十四名・民軍約一万四千名の死者が出たこの戦いが平定されたのは菊次郎が台湾総督府に赴任した後の11月です。また、12月にはのちに菊次郎が支庁長を務める宜蘭にて大規模な島民の蜂起が発生し、二千八百名の住民が死亡。その報復として明治29年(1896年)の元旦に台北が土匪(武装した抗日活動家)に襲撃され、日本語を教える小学校が開校されていた芝山巌(しざんがん)にて10代から30代までの6名の若い日本人教師が悲劇の死を遂げました(六氏先生事件)

 当時、比較的安全とされた台北の国語伝習所(日本語での読み書きや唱歌、算数を教育)に配属された第一回講習員の加藤元右衛門は後年、このように述べています。

 “「(渡台する前に)当時台湾土匪征伐に来られた近衛師団は、驚くばかり多数の病死者を出したので、台湾は瘴烟毒霧に充ち満ちた島で、その上、土匪が出没してはなはだ危険であるという評判で、命の惜しくない者は台湾へ行けと言われていた」”

 「(台北の国語伝習所の生徒を募集するために)ある日自分は和田貫一郎くんと二人で景尾新店の方へ募集に出かけた。当時ははなはだ物騒で、台北県に務める滋野某の夫人が二、三人で古亭庄の川辺に遊びに行って匪賊に射殺された時代であるから油断はできない。予はピストルを腰にし、和田くんは短刀を懐に持って行った」

 菊次郎が叔父であり当時大臣を務めていた西郷従道らの威光で要職に就いたと言われる向きがありますが、もしそうであったならこのように政情不安な地域での職務を、片脚が義足の菊次郎に負わせたでしょうか。上記の近衛師団において皇族の陸軍中将、北白川宮能久親王でさえも現地にてマラリアにかかり命を落としています。台湾へ向かう直前、母に再び会いに奄美へ立ち寄ったことを考えると、死を覚悟しての台湾赴任であったと思われます。

 それでも菊次郎を支えたのは父隆盛の教えだったのではないでしょうか。

 「南洲翁遺訓 十一」にこのような言葉があります。

 “(現代語訳)「文明というものは、道義、道徳が広く、普遍的に行われていることを賛称する言葉であって、荘厳で煌びやかな宮殿であったり美しい衣服であったりという、外見の華やかさを言うのではない。いま世間一般の人たちがいう、文明だ、野蛮だということは、私には何をいっているのかさっぱりわからない。

 先日、私はある人とこの事について議論をしたことがある。私が『西洋は野蛮である』と言ったら、相手が『いや文明である』と反論するので議論になった。さらに私が野蛮であると畳み掛けると、『どうしてそれほどまでにいわれるのか』と強く反発するので、『本当に文明と言うならば、未開の国に向かい合ったときは慈愛を根底のところに持って、懇々と道義、道徳を説明し、開明へ教導していくべきであるのに過去の事例を見てみると未開で道義・道徳の未発達な国に対すれば対するほど、むごく残忍な対応をして自国の利益を最優先しているところなどは野蛮としか言いようがないではないか』というと相手は口をつぐんで一言もなかった」と西郷先生は笑われた”

 また菊次郎は生まれ育った奄美の明治期の発展も目にしています。

 菊次郎が島を離れた後、明治8年(1875年)には岩崎弥太郎が名瀬の白糖工場跡地に日本郵便汽船の営業所を開設して台湾・上海航路が運航開始。再度帰省する前年の明治27年(1894年)には奄美の島民である濱上謙翠と基俊良が大島興業株式会社を設立し、島民自らによる海運事業が開始されていました。かつてはサトウキビの収穫のみを期待されていた奄美が20年ほどで近代流通の地として発展したことを考えると、2ヶ月前に視察した台湾南部も指導次第で必ずこのようになると自信を深めたことでしょう。

 台湾に到着した菊次郎は、まだ役所を置ける状況にほど遠い南部ではなく、参事官心得として台北の総督府で勤務することとなります。激しい抗日活動に対して総督府が治安の改善を図る中、菊次郎は民生局による住民の日本語教育の素案づくりに協力しました。

 この時のキーパーソンが初代民政長官の水野遵と初代学務部長の伊沢修二です。

 水野は愛知県の醤油商人の息子に生まれた後、名古屋藩の史生となり明治4年(1871年)から2年間、清国へ留学。伊沢は長野県の高遠藩士の家に生まれ、江戸でジョン万次郎に英語を学び、明治8年(1875年)には師範学校教育の調査のためにマサチューセッツ州の師範学校にて電話の発明者グラハム・ベルから視話法(発音の際の口の開き方を図で示し、発音を習得させる方法)を学んでいました。

 この三人に共通することは「留学による語学の現地学習経験」です。水野は中国語を、伊沢と菊次郎は英語を学んでいました。伊沢は当初「日本語の素晴らしさと日本の精神を台湾人に伝えるぞ!」と意気込んでいたのですが、現地に到着して早くも一週間で軌道修正せざるを得ませんでした。同じ「漢字」を使用しているとは言え、発音も単語の意味も異なるわけですから当然、住民との意思の疎通がうまく行きません。

 しかしそこに他国の植民政策と大きく異なった点がありました。

 「日本語だけを押しつけない」という点です。

 伊沢は「台湾人には、日本語教育を。同時に日本人官吏も台湾語を学ぶべし」という教育計画を水野に提出し、内地にて日本語教師を募集する際にも意思疎通を図るために「漢文和訳・和文漢訳」の試験を行いました。

 支配国として「我々の言語だけが正しい。お前達の言語や文化は忘れろ」と上から押しつけるのではなく、統治国として「我々はあなた方の事を理解したいのであなた方の言語や文化を尊重します」というソフト路線によるアプローチです。ここからそれまでの植民地支配には見られない「同化政策」が始まりました。結果として台湾人の日本語習得と交流が深まり、少しずつではありますが台湾の住民も日本人に対しての敵意は薄れていきます。

 試行錯誤を繰り返しつつも総督府での仕事にやりがいを覚える菊次郎。彼にまた新たな使命が下ったのは、明治30年5月のことでした。


◯参考文献
1)西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社).
2)「台湾総督府国語学校の設立と言語教育の推進」(王秋陽:山口大学大学院東アジア研究科博士課程論文).
3)西郷南州遺訓. http://www.ningen-ryoku.com/saigo11-15.html


machi-iro magazine #50 掲載