奄美探訪平家落人伝説 machiiro 記事写真2 1

掲載:machi-iro magazine #21
文:當田栄仁
撮影:惠 大造

奄美探訪ロゴ

新しい年のNHK大河ドラマは『平清盛』が放映される。中世の動乱期に躍動した稀代のカリスマが、全国のお茶の間に強烈なインパクトを残す一年となるだろう。ところで読者の皆様は、その平清盛の孫にあたる平家三武将が、奄美に落ち延びたと伝えられていることをご存知だろうか?栄華と滅びの一族平家の影を追えば、琉球と大和の狭間で揺れ動いてきた奄美の姿が見えてくる。いざ探訪−

ことの顛末

正史では、平家は1185年壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡したとされている。しかし、奄美の平家落人伝説では、資盛・有盛・行盛の三将は安徳天皇を奉じて硫黄島に逃れ、その後、喜界島を経て奄美大島を制圧統治したと伝わる。資盛は諸鈍、有盛は浦上、行盛は戸口にそれぞれ城を構え、北からの追討軍を警戒して、蒲生崎と今井崎にそれぞれ部下を配した。

平家の統治下では、様々な優れた技術や文化がもたらされ、つかの間、島民は平和で豊かな時代を享受したが、その幕はあっけなく降ろされることになる。今井崎の見張り役が、行盛への報告に向かう途中のシマで美女と恋仲になり報告を怠った。これを追手の手にかかったものと思い込んだ平家一門は、不安と混乱の果て、あえなく自害して絶えたというのである。

壮麗なる物語

奄美探訪平家落人伝説 machiiro 記事写真2 9

今回、蒲生崎と今井崎を訪れた。車で移動すれば40分ほどかかる両地だが、懐深い笠利湾も両ハナを海上で結べば約4キロ。サーフボードのパドリングで渡りきる猛者もいるという、その間隔は思いの外近い。

没落の果て、南の島からの再起をかける一族は、追手の影に怯えながら北の海を見張り続けたのか。(ちなみに、奄美の方言で北を「ニシ」と呼ぶのは、追手が「来た」と聞き違えないようにするためという言い伝えもある。)

やむことのない海風と波音に打たれていると、果ての見えない海上から、今にも黒い船影が迫ってくる不安に襲われる。たまさか、遠見番は対岸の仲間に目をやり、緑豊かな島影に心を休めたことだろう。

平家落人伝説は、もちろん奄美だけのものではなく全国に広く伝播しているが、その多くは修験者が伝え広めた「平家物語」の影響か、「聖者必衰の理」を説く、ささやかで退廃の陰影濃い伝承と言われる。

一方、奄美の平家落人伝説はと言えば、陽光溢れる南の海を股にかけたスケールの大きさが印象的だ。また、色恋が絡んだプロットも秀逸で、儚くも美しい。埃をかぶった書棚から奄美の平家伝説を引っ張り出す時、まずは物語そのものの魅力を再評価していきたいものだと思う。

歴史ロマン

やはり一般に興味の的となるのは、「史実」か否かという点だろう。科学的検証もしようのない話ではあるが、ここは「歴史ロマン」ということで受け止めたい。

話を横道にそらすようだが、筆者はプロレスが好きだ。学生時代はさておき、ここまで総合格闘技という分野が一般的になってきた中で、プロレス興行がリアルファイトだと思い込んでいる程おめでたい訳ではない。そこには、関係者全員が特殊なファンタジーを共有することでしか現出しえない、肉体と技術とギミックの化学反応がもたらす一瞬の奇跡がある。プロレスという分野においては、どこまでガチな勝負かというのは一つの物差しでしかない。

平家落人伝説について、「史実」であることが確認できないからと興味を失うのは、いかにももったいないことだ。伝説が生まれくる過程や背景は実に興味深いし、これだけ地域に密着した壮大な物語が紡がれてきたという一つの奇跡は、やはり島人の大きな財産だと思う。

薩摩藩の影

奄美探訪平家落人伝説 machiiro 記事写真2 3

蒲生崎には蒲生神社が建立されており、武運長久祈願の地として戦時には広く参拝者が訪れたという。境内の苔むした像や石碑の多くは、薩摩藩による寄進だ。

奄美探訪平家落人伝説 machiiro 記事写真2 5

今井崎の今井権現にも、薩摩の影は色濃い。高さ幅ともおよそ実用的とは思えない石段も、やはり薩摩藩が設置したもの。平家伝説において今井権太夫と伝わる遠見番の名前も、今井崎の地名自体も、境内に石碑を建立している代官の名から由来することが推測されている。

奄美探訪平家落人伝説 machiiro 記事写真2 8

奄美における平家落人伝説の原型を固めたのは、十八世紀の薩摩藩の役人というのが現在の定説だ。十七世紀初めに奄美を支配した薩摩藩が、当初、琉球支配時代のノロ制度を生かして緩やかな統治を行っていた時期を経て、藩財政悪化に伴い砂糖経営を徐々に本格化していくタイミングで、平家来島を史実として報告する、いわゆる「平家文書」が藩に提出される。

その狙いは、琉球との間で培われた秩序や習慣を象徴する「ノロ祭祀」を、薩摩によってもたらされた大和の神(=平家)に読み替えること。平家を祀り上げた神社に繰り返し寄進することで、平家の威光を借りて薩摩藩の権威を高め、統治を強化していくことだ。蒲生崎と今井崎の両地がノロ祭祀の聖地であったという事実は、それを裏付ける。なお、薩摩藩の統治にとって必要ない部分だからなのか、平家文書では伝説後半の一門滅亡に係る件には触れられていない。

薩摩藩による奄美支配は、薩摩から赴任するごく少数の役人を頂点とするが、実際の担い手は「島役人」と呼ばれる現地の名家出身者(ユカリッチュ)だ。この時期を境に、琉球王府との関係が深い琉球系ユカリッチュが没落し、薩摩藩に忠誠を誓い砂糖経営に精勤する新興の薩摩系ユカリッチュが取って代わることとなる。

伝説の再生

話はここで終わらない。ベースとなる伝承は薩摩統治以前から存在したはずで、全てが役人が頭の中でこしらえた創作という訳ではないし、平家落人伝説は、その後も別の目的のため繰り返し語り直されることになるのだ。

人間の長い歴史は、様々な物語を語り伝えてきた積み重ねでもある。当然、その過程で時代ごとのエピソードが肉付けされ、またそぎ落とされていく。波に洗われた玉石のように、伝説が形を成していく。そもそも物語は一個人の創作によって完結するという思い込みの方が、ごく近年の、またごく一部の発想と言えるのかも知れない。

碩学の積み重ねてきた研究成果には、最大限の敬意を払いたい。その上で、「ロマン」という言葉で一抹の未練を残す余地についても、今後また綴っていきたい。

平家ゆかりの地は、できるだけ訪ねるつもりだ。本シリーズもまた伝説のささやかな語り直しとして。次稿に続く—

関連動画

独特な形をした展望台のある蒲生公園を撮影した動画です。
途中、蒲生神社の入り口となる鳥居も映っていますので、あわせてご覧ください。