〜なぜまちの隣り村〜

奄美和光園 ハンセン病 Machiiro奄美探訪 記事写真 46

掲載:machi-iro magazine #54
文:當田栄仁
撮影:惠 大造 空撮:惠 枝美

奄美探訪ロゴ

実家の古いアルバムに美しい数葉が収められている。黄色く焼けたモノクロームは、陽光降り注ぐ庭園と若い医療スタッフたちの弾ける笑顔を映し出している。
その場所が奄美和光園であること、自分が准看護婦として働いていたことを、母は僕に誇らしげに語ってくれた。楽園にも見えるこの別世界は、一体どこにあるのだろう?まだ幼かった僕は、そんなことを繰り返し夢想したものだ。
僕の妹は母の後を追うように、現在に至るまで和光園の看護師として勤めている。妻は、今年から奄美市の和光園担当となり、長女が興味を持ちだして園を訪問するようになった。
ここまでくると何かに導かれているように思える。ハンセン病をめぐる問題を語るのは、僕にはかなり荷が重い。しかし、そんな僕が「知ろう」とする過程をさらけ出すのも、それなりに意味があるのではないかと思い、筆をとることとした。いざ探訪−

患者ゼロ

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記憶に違わず、奄美和光園は美しい村であった。東京ドーム2個半という広大な敷地は、深い森に囲まれている。中央には小川が流れ、園内を歩けば微かにせせらぎが聞こえる。風は既に秋めいていた。

ケースワーカーの有川清四郎さんに、ハンセン病に関する基本的なことから、色々とお話をうかがった。有川さんは、入所者の生活に寄り添って、あらゆる相談事を引き受け、きめ細かくケアされてきた方だ。近年は、高齢化した入所者の代弁者として、園内外を飛び回って講話もされている。

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最初に学んだこと。きっとこれは、何回繰り返しても足りないことだ。奄美和光園に入所されている23名の皆さんは、全員完治された「元患者」だ。まひや指の変形などは、発病時に皮膚と末梢神経を侵されたために負った「後遺症」でしかない。

奄美和光園はハンセン病患者の療養所として開設された施設ではあるが、そもそもハンセン病は極めて感染力が弱い病気であり、科学的な治療法も確立しているため、環境面・栄養面が整った日本国内では殆ど新たな発病がない。

それではなぜ入所者全員が社会復帰できないのかと言えば、長きにわたって政府が継続した「隔離政策」によるところが大きい。海外では1940年代に治療薬が発見され、昭和35年には日本国内でもハンセン病が確実に治ることが分かっていたにもかかわらず、平成8年の「らい予防法」廃止まで隔離規定が見直されることはなかった。

平成13年にハンセン病政策に関する国の責任を明確にする「ハンセン病国家賠償請求訴訟」、今年6月には「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟」に対して、いずれも原告勝訴の判決が下され、国は控訴を断念し謝罪している。

しかし、あまりにも長い時間が流れた。奄美和光園入所者の平均年齢は約86歳。ほとんどの方が医療や介護を必要としており、家族からも長く引き離された入所者の社会復帰は現実的ではない。国と全国ハンセン病療養所入所者協議会などとの間で、「最後の一人まで国立療養所での医療と生活を保障する」との約束が交わされているという。

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美しき村

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奄美和光園は、外来・病棟・福利厚生・住居という4つのゾーンに大別できる。住民が「頼れる皮膚科の病院」として認識しているのは、恐らく入口の大きな外来管理治療棟だろうが、その奥には広大な敷地が広がっている。

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しかし、敷地入口の「開拓の碑」にあるように、昭和18年当時この地に施設が開設されたのは、入所者のご労苦や職員他のご協力あってのことだ。森を拓き、道を作り、施設を建てる。食糧が乏しい中、病を抱えながら、どれ程の重労働であったことか。

以前は隔離施設であったため、敷地周辺は鉄条網で囲まれていた。道路沿いに歩いては時間がかかるため、症状が軽く若い入所者は、鉄条網をかいくぐって市街地に肉体労働に出ていたという。知覚低下のためケガを負いやすかった身体での山越えだった。

敷地内を奥に進み、右手に折れると特別な場所に向かう。以前の霊安室・火葬場・納骨堂があるのだ。杉木立に囲まれた道は急な登りになって、体感温度も下がってくる。入所者が亡くなると、職員と若い入所者がリヤカーに遺体を乗せて運んだのだという。

入所者が、一生施設から出られないと知った時の絶望は想像を絶する。しかし実際には、一生どころか亡くなって骨になるまで園から出ることができなかったのだ。

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旧納骨堂は、彼岸という意味合いなのか、川に橋を渡した向こう岸に建てられている。奄美出身の彫刻家・基俊太郎氏の設計による、まぶしい程に真っ白で、やじろべえ式のモダンなスタイルだ。遺骨に少しでも光をという思いなのか、明り取りを大きくとっている。高齢者が訪れるには遠いこともあって、既に遺骨は新しい納骨堂に移されているが、旧納骨堂は歴史的建造物として大切に残されていくことになる。

個人的には、村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』に描かれた脳内世界を連想する。美しくも静かな悲しみに覆われたこの村は、湖底に絶望を澱のように沈め重ねた深い湖のようでもある。

あん

入稿と発刊の間、11月16日(土)にハンセン病問題啓発講演会が、園内講堂で行われることになっている。内容としては映画『あん』の上映と、映画の原作モデルでもある星塚敬愛園(鹿屋市)の上野正子さんの講演が行わる。

樹木希林演じる主人公・徳江は、幼い頃に肉親から引き離され、子を持つことすら許されなかった。過酷な療養所暮らしの中で、真摯に自然の声を聞きながら暮らしてきた。その一つの結晶が「あん」づくりだった。

とても美しい映画でもあるのだが、ハンセン病に対する「世間」の偏見には、「なんでだよ!」と叫びたくなる。胸をかき乱される。しかし、これが現実なのだろうか?

徳江が療養所から外の世界に飛び出した時、世間は風評という見えない刃で斬りつけてきた。ここで描かれた顛末は、平成15年に黒川温泉で起きた「アイスターホテル宿泊拒否事件」を思い出させる。世間は、元患者が療養所内で慎ましく暮らしていることに対して同情や憐憫を示すが、ひとたび外に出て同等の立場を要求したとたんに辛辣な攻撃を加える。

自分自身に問いかける。ハンセン病元患者の皆さんだけでなく、障がい者やあらゆる社会的弱者に対して、僕は本当に偏見を持っていないのだろうか? 善意の衣をまといつつ、あらゆる理由をつけては、自分の領域に入れまいと遠ざけているのではないのか?

人生に迷う、たい焼き屋店主・千太郎と中学生・ワカナに徳江は説く。「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。…だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ」。この方にしか語れない言葉がある。モデルとなったご本人の肉声を是非お聞きしたいと思う。

なお本作は、昨年死去した名優・樹木希林の最後の主演作であり、今年亡くなった市原悦子、孫の内田伽羅との貴重な共演作でもある。また、奄美にルーツを持つ河瀬直美監督による作品であり、奄美を舞台とする『2つ目の窓』に続く映画でもある。後半には、監督の「奄美愛」と思われるカットがある。

救い

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孤高の日本画家・田中一村の生涯を描いた映画『アダン』の奄美でのシーンは、奄美和光園の園長室で始まる。実際、一村は和光園の周辺に住み、あぜ道を歩いて大熊の紬工場に通ったのだという。緑豊かな園内は、奄美の自然を描き続けた一村にとって格好のスケッチ場所でもあったようだ。

入所者とも親しく、似顔絵を描いてもらったという方も少なくない。身だしなみなど世間体を気にすることもなく己の画道にまい進した一村は、入所者に対しても何ら偏見を持つことなく接していたようだ。

身内の話だが、義父が少年の頃、離島から入所されるご家族を一晩家に泊めたそうだ。その晩は食事を共にし、翌朝まだ暗い内に、にぎり飯を持たせて義父が唐浜まで送っていった。人目を避けて、山越えでの入所であった。その後、どこから聞きつけたのか保健所がやって来て、家は真っ白になるまで石灰で消毒された。そういう時代の話だ。

聞けば、この家族が近所で雨宿りしている様子を見て、義父の母が「キムチャゲサ(かわいそうに)」と招き入れたもので、身内でも何でもなかったのだとか。義父の母は、幼くして親兄弟を失い、子守をしながら親戚に育てられた境遇であったためか、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べたそうだ。

新しい納骨堂には、物故者三九二柱に対して、遺骨四八柱が収められている。その内、九柱が全骨、三九柱が分骨である。つまり、大多数の遺骨が引き取られているということだ。これは、故郷を捨て、名前を変えて入所してくる本土の療養所では考えられないことだという。

納骨堂の近くには、第四十六代横綱の先代朝潮太郎の手形入り石碑が建っている。入所者の従弟と会うために、和光園を訪問した際に手形を残していったのだという。先代朝潮は、190cmに迫る巨体と武骨な風貌で知られるが、心優しい力士でもあったのだ。

入所者の多くが若い時代は、療養所暮らしの数少ない娯楽として、スポーツも盛んだった。野球も強く、地域では有名な和光園の投手を見ようと、前出の義父はわざわざ朝日校区まで出かけたという。ゲートボールが盛んなことは全国の療養所共通であるらしく、取材直後の週末にも全郡のチームが和光園内で交流大会を開催する予定になっていた。

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厳しい療養所生活を精神面で支えたのが宗教であった。園内にはプロテスタントの教会があり、隣接する敷地にはカトリック教会もある。戦後の米軍統治下、教会の庇護のもと子供を設ける例があったという話だ。現在も入所者の多くが、キリスト教以外を含めて何らかの信仰を持っているとのこと。

意外にも、入所者の中には自動車運転免許を保有されている方もいらっしゃる。自動車学校が園内で出張教習を行って取得されたとのこと。高齢化に伴って免許を返納された方もいるとのことだが、手足の不自由を補う改造車両で、今でも夫婦してドライブを楽しむ姿が見られるそうだ。

観光客や奄美ファンの方々から、奄美の人の心持ちを賞賛する声を聞くことがある。僕自身がひねくれているせいか、地元であるが故に見えにくいのか、これまでどこか半信半疑だった。

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しかし、今回この取材でいくつかのエピソードを聞くにつけ、島人は本当に優しいのだと胸に沁みた。もちろん、多くの入所者や元患者、そしてそのご家族の皆さんがつらい思いをしてこられたのだが、『あん』で描かれた厳しく冷たい世界と比較して、僕としては何だか救われる思いがしているのだ。

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隣村の未来

まち色事務所から奄美和光園までは、車で5分もかからない。奥まった谷あいにひっそりと佇んでいた奄美和光園は、平成17年の和光トンネル開通によって、国道沿いの中心市街地近郊、「なぜまちの隣り村」に位置することとなった。

これは一般に、結果的にそうなっただけ、あるいは地形上の偶然と理解されていることだろう。それはある意味、事実だと思う。しかし、僕も若い時分、街づくりスタッフの一員だった立場から付け加えさせていただきたい。当時の担当者は、十分に奄美和光園を意識して、防災面からも施設の将来のためにも、現在の和光ルートを決定したのだ。

しかし、それが実現できたのも、以前から奄美和光園が地域に開かれた施設として十分に受け入れられていたからだろう。仮の話になるが、内地の療養所に関して同様の事案が生じた場合、果たして地域は受け入れただろうかと疑問に思うのだ。

奄美和光園は全国でも有数の「開かれた療養所」であると同時に、最も入所者数が少ない施設でもある。高齢化が進む中、当然にして、この広大な敷地と施設の活用をどうするかという将来構想が大きな課題となっている。

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入所者の大部分が奄美和光園を終の棲家と定め、それ故に静かに余生を送りたいと願っている。残念ながら、自治会は休眠状態であり、他の療養所からも心配されている。

偏見に囚われているのは自分達以上の世代なのかも知れないと言う有川さんは、昆虫採集で無邪気に園を訪れる子供たちを微笑ましく思いつつ、歴史の風化を恐れている。

現在、展示機能を備えた「社会交流会館」の開設に向けて準備が進められているとのことだが、過去から現在に至るまで入所者の皆さんが大変なご苦労を重ねてこられた奄美和光園には、人の心の闇を照らす光として、ハンセン病の枠に留まらない使命を果たしていただきたいと期待する。

もしかすると、本稿にしても来月開催される講演会にしても、入所者の心の水面にさざ波を立てるかも知れない。しかし、未来のために議論を活性化しなければならない時機が迫っている、とも思えるのだ。

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ここまで本稿を呼んで下さった皆さんに提案したい。奄美和光園を訪れていただきたい。園内の畑で農業体験を楽しむ「ふれいあい和光塾」(奄美市教育委員会)や「親子療養所訪問」(同健康増進課)などの機会を利用されるのもいいかと思う。まずは気軽に『あん』をレンタル視聴していただくのもいい。より深く学びたい方には、県立図書館のハンセン病文庫をお勧めする。

奄美和光園は地域の宝だ。その来し方を知り、未来を一緒に考えていただければ幸いだ。

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取材に先立つ7月、和光園の夏祭りを訪れた。夏の宵に包まれた園は、やはり美しかった。夏休みに入ったばかりで元気いっぱいの子供たちなど驚くほどの人出があり、和やかな芸能や職員の皆さん心づくしの出店が気持ちを寛げる。

祭りの時間もそろそろ終わりに近づく頃、前に腰かけていた高齢の男性がおもむろに立ち上がり「兄さん、これでビールでも飲まんね」とチケットを下さり、付き添いの方と共に帰られた。礼を伝えつつ、そろそろ店じまいなんだがとチケットを見直せば、それは入所者に配られるものだった。このチケットが、今回の取材へと僕の背中を押してくれた。

奄美和光園に奉職したことを一生の誇りとする母と妹を、僕は誇りに思う。

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