奄美探訪 西古見集落 machiiro 記事写真 9
観測所内部

掲載:machi-iro magazine #19
文:當田栄仁
撮影:惠 大造

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そこは西の果て。島人でも訪れる機会が少ない奄美大島の奥座敷へ——いざ探訪

今は木崩雨。新緑萌えいずる奄美の一番いい季節を、特別な場所で感じたい。それだけで動機は十分だ。

廃校

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旧古志小学校校舎

大島海峡沿いを西に向かって走り、篠川集落から静かな入り江をいくつか通過したところ、旧古志小学校の前で思わず車を停めた。

古志小学校は、僕にとって思い出の学校だ。家業多忙な中、怠け者で大食漢の息子を持て余した両親は、長期の休みとなれば今で言う「ホームステイ」を僕に課した。要は親戚の家をたらい回しにされる訳だが、小学五年生当時、古志集落には叔父が住む教員住宅があり、僕はひと夏そこで過ごすことになった。

記憶は断片的だ。ただ、まち育ちの僕には、緑と水に囲まれた環境だけで、十分に新鮮だった。毎朝、川沿いの道を小学校までラジオ体操に通った。同い年のいとこと仲良く宿題を済ませると、家を回り遊んだ。川で捕れたウナギを食べ過ぎて太ったという友達の話だけ、なぜか何度も思い出す。秋には運動会に訪れた。小学校の運動会というよりも集落の祭りだった。最後に八月踊りが始まったのには、子供ながらに驚いた。

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旧古志小学校に残るデイゴ

廃校になったのは平成19年度。学校のシンボルだったデイゴの巨木は、今は枯れてしまったのか、足元を雑草に覆われて枝ぶりだけが目立っている。新一年生が入学することのない校舎の裏山は、今年も瑞々しい新緑に覆われている。

再び、西へとステアリングを切る。

絵に描いたようなシマ

今年2月に開通した県道が、これほど立派とは知らなかった。心地よいカーブと起伏の2車線道路に、むしろ運ばれていくような感覚で、西古見が近づいてくる。道々では、フティやらタラの芽やらを採り、島人が春を喜ぶ。道路沿いに、夕陽鑑賞に絶好の展望所も設けられていた。オフロードの記憶とのギャップに馴染む間もなく、三連立神が現れた。

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観測所から望む三連立神

「取材」という程のことはない。シマを歩けば、自然にあいさつを交わし話をする。僕が馴染みだからでもなければ、特に人懐こい性格なのでもない。サンゴ石を積み重ねた素朴な石垣を、昔の記憶を語るように島風が吹き抜ける。至る所に用心棒。石垣に根を張るガジュマル。入り組んだ路地を歩き回るだけで、優しい気持ちになるようだ。

防波堤で涼むご婦人方に色々とお話をうかがっていると、突然大きく手を叩きながら、「ななこ〜!ゆうせ〜い!」と呼びかけた。呼びかけた相手は、幼いお子さんを連れた若いご家族だった。

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茂(しげる)さんご一家:左/隆一郎さん、奈々子ちゃん(当時2歳) 右/真里さん、悠聖くん(当時1歳)
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西古見郵便局のポスト

ご主人は、西古見出身ながら名瀬育ちで、祖父—父と代々続く西古見郵便局の局長さん。奥様は、名瀬浜里町で家が隣同士だったという幼馴染で、一緒にシマに帰って欲しいというプロポーズを受け、この地で新しい家庭を築いた。シマに子供は二人だけ。住民の皆さんに愛され育てられているようにお見受けした。「ここでは時間がゆっくり流れていくのでは?」との問いに、奥様は風のように静かにうなずいた。

かつて、カツオ漁で隆盛を極めた港にその面影は残されていないが、今日はなにやら賑わっている。ご婦人いわく「イカ柴を設置して帰ってきたのよ。ところで兄さんどこから?」「名瀬からです。」「え?だれば。ほら今,名瀬の先生が上がってくるよ。」

再会

「!」。思いがけない中学校の恩師との再会だった。スウェットスーツから滴を落としながら、「おーよく来た。ほらおいでおいで」。腕を引かれて、先生のお宅におじゃますることになった。

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山元真琴先生(左)と筆者

恩師の名は、山元真琴先生。僕が中学生当時は、生徒指導担当の熱血教師だった。その後,校長時代から現在に至るまで、縁あってお世話になり続けている、まさしく「恩師」だ。

なぜ先生がここに?答えをいただく前に、生ウコン茶をいただいた。日を避けるとまだ肌寒い候、冷えた身体がポッと温まる。その後も、遠慮する僕らを制して、先生は手料理までふるまって下さった。先生の意外すぎる一面に驚きつつ、お話をうかがった。

先生は、まだカツオ漁の栄華が残る西古見で少年時代を過ごした。特に生き生きと語って下さったのは、豊漁祭に合わせて開催されていた相撲大会。当時、西古見相撲を制する者は群島を制するとまで言われるほど、シマジマの名力士が一堂に会する壮烈な大会だったそうだ。

転勤続きの勤めを終え、現在は名瀬が三分の一、西古見が三分の二の暮らしとか。「いくら金を積まれてもここでの暮らしは譲れない」と力強く語る先生の表情には曇りひとつなく、喜びに溢れている。

「前もって来ると分かってるなら魚や貝も用意したし、江仁屋離にも連れて行ったのに」。グスクのことも教えていただきたいし、小学校跡の巨木にも会いたい。ぜひまたお邪魔させて下さい!

観測所

奄美大島の戦跡は、天然の要害と言われた瀬戸内町・大島海峡に集中している。残念なことに管理が行き届かない箇所がほとんどで、多くが存在を知られることなく日々朽ちつつある。

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集落を通過し、与路・請から遠く徳之島までを見通す素晴らしい眺望の高台に「旧日本陸軍観測所跡」がある。ここは風雨の激しい場所に違いないが、しっかりと施設の形跡をとどめている。外部から分かりにくいよう岬に埋まるように作られており、スリット(すき間)から外を観察できるようになっている。建物内部の壁面に、実際の地形と各ポイントへの距離がひと目で分かるよう描かれた詳細な地図が、今も鮮明に残っている。

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観測所内部の壁面図

この観測所で侵入者を捕捉し、近隣の砲台に連絡、砲撃するという流れだったという。当時の帝国軍人の目には、この美しい風景がどう映っていたのだろう。それは、そう遠い昔のことではないし、ここは映画やドラマのセットではない。

この施設周辺を見学できるように整備するよう町に働きかけたのが、他ならぬ山元先生だ。戦跡に限らず、僕らは先人や自然から受け継いだ多くの財産に、気づくことすらなく暮らしている。一人からでもできることはある。高い所からではあったが、改めて恩師に頭を垂れた。

虹の理論

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戸倉山から見る西古見集落

理数系の後輩と、虹が見える理屈を議論したことがある。彼方に美しい虹がかかるのは、実は、空中の水滴で屈折した光のゆがみを、僕らが勝手に虹と認識しているという話だ。その意味では、虹は空中の水滴内にあることになるし、更に言えば、僕らの網膜上にのみ存在することになる。

宇検村側へ走る帰路、思いがけず西古見の上に出た。戸倉山から新緑がなだれをうった先、碧い海を前に佇むシマは、言葉が出ないほどに美しかった。もちろん、西古見集落は現実に存在する。しかし、僕のような外部の人間が、このシマの真実に近づくことは、永遠にかなわないように思えてくる。

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帰路立ち寄ったカンツメの碑

遥か西古見路。往時の夢とうつつの間をはかなく浮遊するシマ。僕だっていつかは虹の橋を渡ってみたい、と夢見るのだが—

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