諸鈍シバヤ

〜平家落人伝説4〜

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掲載:machi-iro magazine #36
文:當田栄仁
撮影:惠 大造

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秋の夜長、世界最古の長編小説『源氏物語』原文の音読を楽しんでいる。日本語が最も洗練されていた時代の最高の言葉の藝。曲がりなりにもネイティブとして源氏の世界に浸れるのは、日本人として生まれ育った恩恵であり喜びだ。
久しぶりにそんな気分になったのは、諸鈍シバヤを観に行ったからだ。道に迷ったら古典に還ろう。いざ探訪ー

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シバヤ

 素直に「面白い」と思えるはずだ。例年、旧暦九月九日に大屯(おおちょん)神社で行われる「諸鈍シバヤ」。まだ、現地で観たことがないという方は、是非一度は足を運ぶべきだ。

 国の重要無形民俗文化財の指定を受けて久しく、独特の面のイメージと共に「諸鈍シバヤ」の名は広く知れ渡っている。普段はひっそりと佇む瀬戸内町諸鈍集落は、シバヤ当日、多くの観客が詰めかけ一種異様な熱気に包まれる。

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 シバヤ単独の興行という形ではなく、大屯神社祭のプログラムの一つであるため、実はシバヤの前に、関係者のあいさつから始まり、豊年相撲、婦人会の踊り、エイサーまで行われる。その間、出演者一同が浜辺で「シュンハナ(潮花)ツカイ」と言われる禊(みそぎ)に出かける。彼らが会場に戻ってきたら、いよいよシバヤの開演である。

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 「イッソウ」と呼ばれる楽屋入りから、観客はシバヤ独特の世界に引き込まれて行く。続いて「サンバト」。ヒゲをたくわえた翁が開演の口上を述べる。演者全員が男で、カビディラ(紙面)、バッチに青の吹き流しという服装で統一されている中で、娘役と山高帽に紋付袴という翁だけが異彩を放っている。

 唄・三味線・太鼓で編成される「リュウテ」が本殿横に構える。演目の前には丁寧な解説もあり、音響も演奏も申し分ない。

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 平敦盛を偲ぶ「ククワ節」、徒然草の吉田兼好を歌った「キンコウ節」、種子島から伝わったとされる「シンジョウ節」と続く。

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 棒踊りの「スクテングワ」が年に一度のシャッターチャンスを提供して、前半終了となる。水入りの間、一年間の無病息災を約束する「力飯」が振る舞われ、観客が先を争って頬張る。可愛らしい「ちびっ子シバヤ」も披露される。堂々たる舞に、集落全体がシバヤを誇る思いが伝わってくる。

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 飯が腹に落ちて一息ついたところで、シシが地響きを立て、客席を突っ切ってくる。「シシキリ」だ。唯一登場する娘役は狩人に救われ、シシはあえなく担がれて退場となる。

 後半も、座頭が訛った「ダッタドン」、人形劇「タマティユ(玉露)」、豊作を祈願する「カマ踊り」と様々な演目が続き、観衆を飽きさせない。

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 クライマックスは「高キ山」。先頭の者が、これまで登場しなかった大鼓を抱え、喜びを爆発させるかのように躍動感溢れる舞を見せる。後続の者は、腰に色とりどりの花を挿し、鐘を鳴らし、素手で舞う。「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り…」。豊作を祈願する華やかな舞と共に、シバヤの幕が下りる。

文化周圏論?

 諸鈍シバヤは一見、全国各地に残る村芝居であり素人歌舞伎の一つに思えるが、国指定には当然理由がある。

 演目は、出端(では)・中端(なかは)・入端(いりは)という三部構成になっており、歌舞伎初期の型を今に伝えるものと注目されている。今日、「歌舞伎」と言えば、幕府の保護のもと発展し今日に至る江戸歌舞伎が中心だが、発祥は「出雲阿国(いずものおくに)」の「かぶき踊」と言われている。元々が、民衆の中から生まれ育ってきた芸能なのだ。

 また、「サンバト」は「三番叟」の訛りであり、「イッソウ」は「一番叟」。共に能楽の用語で、室町時代に形を成した能楽の要素が、いつ頃どのような形で奄美に伝わったのか興味深い。

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 地元諸鈍では、平家落人三武将の長、資盛(すけもり)公が地元民との交流を図るために教え伝え、都の栄華を偲んだと伝わる。楽器編成や唄は島のものだが、確かに他のシマの伝統行事とは異なる、独特の雅な雰囲気に包まれている。

 日本民俗学の祖・柳田國男が「蝸牛考」で唱えた「方言周圏論」という考え方がある。かつて文化的中心地であった近畿から、同じ方言が同心円状に広がっている事例から、地方に行くほど京都の古い言葉が残っていると考えられる。この考えにならって方言を文化全般に置き換えれば、都市部の文化が権力による統制と洗練を経て在り様を変えているのに対し、辺境の地にこそ日本古代文化が生きているということになる。

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 奄美の動植物に学べることもある。本土では見られない固有種の多くは、南方から島伝いに渡って来たと言われてきたし、筆者も何となくそう思ってきた。しかし、実際には、中国側の大陸とつながっていた時に乗り込んできた生き物が、奄美群島が大陸から切り離され東シナ海が広がる過程で取り残されたことが分かってきている。ハブもクロウサギも西方から来たことになる。

 一方、植物のカンアオイは、奄美大島の中で六種類にも分化し、それぞれに特性を持ち棲み分けている。島の地形がもたらす隔絶された環境が、独自の進化を助けた結果と言える。

 諸鈍シバヤについても、歌舞伎や能楽の要素だけではなく、琉球を経由したものか中国からのモチーフがあり、装束などには宮古・八重山の雰囲気もある。音楽面を中心に、奄美独特の発展も明らかだ。文化の発信源は常に大和の中心部で、波紋のように広がった恩恵を地方はただ押しいただくという構図だけでは語りきれない。

ナグサミ

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 一つのポイントは、開催場所がシマのミャー(広場)ではなく、神社である点だろう。日取りについて以前は、必ずしも九月九日に開催されていたものでもないと聞く。

 よく比較の対象となる油井集落の豊年祭とは、本質的に似て非なる部分がある。モチーフとして豊作祈願を扱うものの、奄美の稲作儀礼の一環として行われるものではない。誤解を恐れずに言えば「ナグサミ」なのだ。

 住用の川内集落に「スクテングワ」だけが伝わっており、時折披露されるのを観る機会がある。山間集落方面の豊年祭でも、諸鈍シバヤと似た雰囲気の芸能が催される。

 それも、諸鈍シバヤの歴史を振り返ると合点がいく。明治初期、あまりの評判に気を良くした一座は興行化を図り、島内巡業を行ったのだという。しかし、大島本島内では順調だった興行は、徳之島で大失敗となり、シバヤ自体が途絶えてしまう。その後、大正三年に復活、戦時中にも途絶えたが、九学会の要請に応じて昭和三十一年に再演され今日に至っている。

 タマティユなどの演目で何度か唄われる「ほこらしゃ節」は、長朝花節の原型とも言われるが、奄美まつりのパレード二部で踊られる曲でもある。諸鈍シバヤは、案外身近な存在だ。

 諸鈍シバヤは、文化的価値を見出そうと、眉間にしわを寄せ観賞するものではないと思う。お世辞にも品があるとは言えない間の抜けた面。ゆったりとした動き。がに股で腰を落とし、パッと天を仰ぐように手を返す。こうした一連の動作が、何故にこうも可笑しいのか。

 一言でいえば「滑稽」だ。テレビや劇場で「お笑い」には目が肥えているはずの現代人は、どこかで本質をはき違えているのかも知れない。非日常から日常へストンと落ちる時、フッと身体が軽くなる。テレビもラジオもない時代、島人が、シバヤをどれほど楽しみにしてきたことだろう。

 諸鈍というシマの立地も頭に入れる必要がある。諸鈍長浜とアダン並木で知られるこの美しいシマは、映画のロケ地としても有名だが、以前は天然の良港として大和からも南方からも多くの交易船が行き交う土地だった。人と物が行き交う中で、芸能が集積・洗練されていく過程は想像に難くない。

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 島人の余興好きは、道の島という環境で育まれてきたDNAに由来するもの。諸鈍シバヤを観ると、そう思えてくる。

資盛

 諸鈍シバヤを伝えた平資盛が織田信長の先祖だという話をご存知か。これは胡散臭い俗説ではなく、織田信長自身が上洛の大義名分として唱えたことだ。

 「平氏にあらずんば人にあらず」とは、平氏一族の栄華と増長ぶりを語る平家物語中の有名な言葉だ。資盛も、対立する摂政に報復を行った「殿上乗合事件」のきっかけを作った人物として知られる。

 最高官位は従三位、帝の清涼殿への昇殿を許された堂々たる殿上人。和歌に優れ、公家化した武家と言われる平氏の中でも、最も貴族化した人物の一人と言える。平氏敗走の過程では、常に負け戦の将として悲劇的な役回りとなった。

 行盛、有盛を伴って奄美入りし、総大将として諸鈍に城を構えた資盛は、伝言のミスで滅亡を悟り自刃したと伝わる。最後まで悲劇で彩られた人生は、美しい南の島で散った。

 平家に復讐を果たし、幕府を開いた源氏はわずか三代で絶えた。同じく全盛期は短かったものの、悪役ながら平家物語で語られ、諸鈍シバヤはじめ日本各地に文化・芸能を残したと伝わる平家。人の歴史に勝者などいないような気がしてくる。

 不思議なことに、秋名のアラセツ行事が行われる旧八月八日と、諸鈍シバヤの旧九月九日は毎年好天と決まっているそうな。

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 生間(いけんま)集落から会場までは、ゆるい峠越えの徒歩約十分。輝く大島海峡を海上タクシーで渡るもよし、定期フェリーもシバヤ当日はダイヤを合わせてくれる。島バスのツアーもある。まだ少し強すぎる日差しに時折目を細めつつ、心地よい秋風に吹かれる最上の一日になるはずだ。

 「アーツルクテン サーテンテンテン アーツルクテン…」というシバヤの囃子が、今も耳から離れない。

参考図書
『奄美に生きる日本古代文化』金久正
『諸鈍シバヤの解説』瀬戸内町教育委員会