掲載:machi-iro magazine #44

泉和子フォトエッセイ
写真:泉和子

道は一変して恐怖なものへと化した。

 あなたは道を歩く時、その道の名の由来や其処に昔は何があったのか、などと考えたことがあるだろうか。今回はシマ(集落)の道について書いてみたい。

 シマの道は、人の生活圏においてカミミチ(神道)、クンキリミチ(山を横切る近道)などと呼ぶ道が機能してきた。各集落における道の分布は多い。次の集落へ続く道には、其々その集落名が付いている道もある。例えば、秋名道、芦花部道というふうに。そして、坂になった道は、方言でヒラとか、ビラと呼ぶ。

 私の幼い頃は、家の横の細長い道が遊び場だった。隣近所の子や同級生、姉妹たちとままごと、おはじき、テンスゥジンヤ(陣取りゲーム)などをして遊んだ。自転車でやってくる紙芝居は、水飴をなめながら見た。ナンカンジョセ(七草雑炊)を貰いに行った道、父の亡骸が入った棺桶が出て行った道、行事の時も大切な役割をしてくれた道だ。黒飴作りの小父さんの作業場や新聞社、昼も電球の明かりを照らし、鶏の雛を孵化させていた養鶏舎など、それらの敷地に隣接した道の風情があった。時々、夜になると、路地の中ほどに裸電球の明かりが灯った。そこは、旧警察所の裏側にあたり、警察医による検視解剖が行われていた。明かりの灯る夜は、不気味でその道を通ることができなかった。道は一変して恐怖なものへと化した。

 シマの道にまつわる伝説や慣習は、不思議なものが多い。母から聞いた名瀬の道の俗信を一つ。ムカシ、現在、建設中の市役所横の道には、ミンキラウヮー(耳のない豚)という妖怪が出没したそうだ。その妖怪が人の股間をくぐると、人は死ぬと言う。だから、くぐらせないように足を交差させながら、人々はその道を通ったそう。なぜ、そうまでして、その道を通らなければならなかったのだろう。回り道をすればすむのに・・・。

 古い名瀬の街の通り名で、印象深い名を挙げよう。今の中央通りを海の方から山の方へ歩いて行くと、アーケードが終わる付近の左側に「あざまご帽子店」の看板を残した木造の建物がある。通り名から名付けたと思われる店名だ。店の手前を左手に曲がった路地が、「あざまご通り」と呼ばれていた通りの一部にあたる。道は少しカーブして上がり、現在の内山商事のあたりで永田橋通りに繋がっていたようだ。「あざまご」は、もし、漢字を宛てて意味付けしたとすると、地域の字を流れる川の名が発祥だというから、「あざ(字)ま(間)ご(川)」。境界線の川だったのか。川その物は河川工事で無くなっていたが、川の名は残った。そしてそれは、昔の伊津部と金久を繋ぐ主要な商店街の一部の僅か百メートル位の通りの名だったと言う。今では、往時の面影は「あざまご帽子店」の使われなくなった看板と書籍にわずかな記述が見られるだけである。

 以前は、集落のユイワク(共助)で道普請というのがあった。集落内の道や集落と集落間の道の補修をし、助け合って集落を守ってきたのだ。そんな時にシマ唄が歌われ、シマ料理も作られたに違いない。

 そうやって道の形態やシマの様相は変わっても、道はその時その時、人の暮らしに寄りそうようにあったのだ。変わりゆくものがあっても変わらないものもある。それを大切にしていきたい。

*参考文献『名瀬大正外史』1984池野幸吉