ウンギャルまち笠利

〜眠れる宝の島〜

奄美探訪 0001

掲載:machi-iro magazine #52
文:當田栄仁
撮影:惠 大造 當田栄仁(浜下り) 惠 枝美(空撮・沖縄)
魚・漁の写真提供:奄美漁業協同組合

奄美探訪ロゴ

奄美空港の離発着。天候の良い日は、碧い海が目を楽しませる。
タイミングが合って笠利町全域が視野に入ると、思いの外、小さいことに驚く。
空の玄関口であり、観光資源も豊富な奄美大島北部は、明るく元気なイメージが強い。
今回は、とあるプロジェクトをめぐる笠利の漢(おとこ)たちの物語へ。いざ探訪−

漢その一 〜 fisherman 〜

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約束の時間に奄美漁協笠利本所を訪れると、揚場に立つ男性から声をかけられる。「まあ入れよ」と事務所に導かれる。

「どっから話そうか?」手をもみ話しかける赤銅色の笑顔と鋭い眼光だけで、只者ではないことがビンビン伝わってくる。

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男性の名は、濵崎房生さん。漁師になった若い頃から、「量」優先で魚価が乱高下する状況に不満と不安を抱えていた。漁獲量が少なければ値が跳ね上がり、獲れ始めればガタ落ちするので、おのずと漁師は危険を冒して漁に出る。漁師同士がつぶし合えば、全体の資源管理もままならない。

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まず房生兄が始めたのは、「量」から「質」への転換だった。これまで、釣ったまま水槽に放り込んでいた魚を、「沖締め」しようと取り組んだ。笠利地区の主力魚種は、決して大型ではない。これを全て施すのは、かなりの手間であり負担になるはずだ。しかし、これによって獲った魚の鮮度は劇的に変わった。活路が見えた。

しかし、仲間内で始めた取り組みも、漁協としてまとまらなければ評価は上がらない。実際に質のいい魚でも「あぁ、あっちの魚はこんなもんだよ」とレッテルを張られては、魚価は上がらない。

ここからの道は困難を極めた。「こんなことしても10円上がるかも分からんのに」と文句を言う守旧派を変えるには、根気強い議論と結果を示すしかない。漁の合間を見て、研修に出かけるなどして締めの技術を学んだ。機器類を含め鮮度保持に関する情報を集めた。

驚かされるのは、自分の金と労力を費やした技術を、惜しげもなく他人に教えるオープンな姿勢だ。「何で教えられるんですか? もったいなくないですか?」と問うと、「なんで? 皆で取り組まんば組合全体が良くならんのよ! 当たり前のことじゃがな!」と逆に驚かれる。

素直に思う。この人かっこいい。多くの漁師が、この兄に憧れ、またリードされている。男が惚れる漢。濵崎房生兄は「指導漁業士」として、正式に指導的立場にも立っている。

ヘナチョコ島人ながら、一応「現場主義」を掲げる本企画。今回も、房生兄の船に乗り込み、沖での漁と沖締めの模様を取材するつもりでいた。泊りの漁もあれば、日帰りなら朝三時から深夜までの操業だ。

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悪天候が予想されたため、残念ながら今回の現場取材は回避したのだが、実際、この期間中に水難事故が相次いだ。本物の漁師は、やはり海を分かっている。正直、僕は胸を撫で下ろしていた。

最後に笑って声をかけられた。「お前なんか、本当に漁を取材するつもりだった訳?」。精一杯虚勢を張って返した。「もちろんですよ。また今度お願いします!」

その時、プロジェクトが動き出した!

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締めの技術は「神経締め」の段階まで進化する。血を抜くだけでなく、脳神経を破壊することで死後硬直を防ぎ、うま味を保つ。市場の評価は更に上がっていった。

平成二十五年、泊市場に出荷されていた魚がきっかけで、沖縄県内大手小売業者「サンエー」との相対取引が始まる。相対取引とは、市場に左右されない直接取引であり、お互いの信頼関係が前提となる。乱暴に言ってしまえば「うちが買うから獲れた分だけ持ってこい」ということである。大きな後ろ盾ができたことで、笠利の漁業は、本格的に量から質の漁業へと移行していく。

そして平成二十七年、房生兄と後述する奄美市笠利総合支所の担当職員が、同じ夜別々にNHKの番組を視る。紹介されていたのは「UFB(ウルトラファインバブル)」。極小ナノサイズの気泡が作る高窒素超低酸素水による鮮度保持、という画期的な技術だった。

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翌朝の二人の直談判に漁協組合長は即決。「北九州へ飛べ!」と叫んだ。この時、これまでの関係者の地道な努力の積み重ねが、大きな歯車を動かし始める。「奄美鮮魚笠利産」のブランド化という、ビッグプロジェクトが動き始めた。

話はトントン拍子に進む。現地を訪れた二人は、装置の実用性を確信。即発注し、二か月後には九州初の納品となる。先進的な取り組みは苦労も多い。水温との兼ね合い、魚種ごとの効果など検証が続く。検証結果はメーカーにフィードバックされ、装置の改良が進む。

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このプロジェクトの成功の秘訣は、進化を止めない所だ。その後、紫外線流水殺菌装置を導入し、水質が更に向上する。揚場の衛生面と効率面も大幅に改善された。船にUFB水を積み込み、沖締め直後に漬け込む取り組みも進められている。

販路拡大は進む。空輸による最速流通をうたう「羽田市場」との取引を開始。「奄美鮮魚笠利産」は、首都圏だけでなく海外へも流通し始める。

特殊な装置によって加工されているとはいえ、「水」で魚の鮮度が保てるとは、読者の皆さんも俄かに信じられないのではないか。僕も同じくだ。しかし、取引先の評価と消費者の支持は絶大。味・食感・臭いが抜群で、かつ日持ちがする。「多少高くてもいい、この魚にしてくれ!」。奄美の産品で、これ程のブランド力を発揮している例を知らない。

確かめる方法がある。笠利の漁協を訪れて欲しい。そこにUFB水に魚を浸けこんだコンテナがあるのに、場内に全く臭いがないのだ。恐らく一般家庭のキッチンよりも。HACCP(ハサップ)認証も視野に入れているという話は、決して大げさに聞こえないはずだ。

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漢その二 〜 chairman 〜

トップが最強の営業マンである組織は強い。龍郷・大和・住用を含む奄美漁協全体をけん引する柊田謙夫組合長は、そんな好例だ。

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取材当日は組合の総会が行われており、休日とはいえ関係者が行き交う賑やかな雰囲気だった。組合長応接室での房生兄へのインタビュー中、組合長が駆け込んでくる。笑顔と大声で、ひとしきり「奄美鮮魚笠利産」を語り、走り去っていく。

小柄な身体から迸るエネルギー。あぁこの人になら任せても裏切られることはないだろうと、根拠のない安心感を持つ。

奄美漁協、合併前の笠利漁協の歩みは、決して順風満帆ではなかったと聞く。不安定な漁獲高、燃油の高騰、資源の減少。自ずと組合の財政はひっ迫していく。

そして、組合長の英断によるプロジェクト始動。そこからV字回復が続く。

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4地区を束ねるトップとして、調整事項は多岐にわたる。組合長の姿勢は一貫している。共に歩む者に対しては、自ら胸襟を開き、全てを与える。そうでない者に対しては、きちんと一線を引き、時としては断固たる姿勢を示す。ブランド化の取り組みについても同様だ。

プロジェクトの肝は、組合と漁業者との絆の固さだ。漁業者は獲る。そして、しっかりと沖締めを施して魚を揚げる。組合は、UFBを軸に、可能な限りの鮮度保持を行い流通に乗せる。時には厳しいチェックをし合いながら、互いの役割分担をきっちりとこなしていく。そして、両者の要に、あまり椅子に座ることのない組合長(chairman)がいる。

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夢は広がる。事業の順調な成長に伴い、現在の笠利本所では広さが不十分になりつつあり、東海岸の宇宿漁港への移転が計画されている。まだ構想段階ではあるが、ここではUFB関連施設の増強、喜界漁協との連携強化に加えて、「奄美鮮魚笠利産」を地元や観光客に味わってもらえる施設が整備されることだろう。

「奄美漁協の未来は明るいよ〜」と心からの笑顔で語れる組合長が、奄美に限らず全国にどれ程いるだろうか?

ウンギャルまち笠利

笠利の主力魚種「ウンギャルマツ(和名:アオダイ)」は、僕にとって「イュン汁(魚汁)」に入れると美味しい魚。奄美全般で親しまれている魚だと思う。

相対取引による島外出荷の増加は、一方で島内の流通不足にもつながりかねない。地元に愛されてこそのブランドということで、鮮魚と「笠利ウンギャル丼」を提供する店を紹介するというのが「ウンギャルまち笠利」という取組だ。

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今回、笠利の「レスト&ロッジ翔」と名瀬の「大蔵」にて、「笠利ウンギャル丼」をいただいた。翔は「あんかけチャーハン」風、大蔵は「鯛茶漬け」風と異なる趣向で、それぞれ味噌に漬かったウンギャルマツを味わえる。ぜひウンギャルマツの新しい魅力を知っていただきたい。なお、ティダムーンやばしゃ山村では、より観光的な趣向のメニューを楽しめるとのこと。

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驚くのは、各店舗で「笠利ウンギャル丼の掟」なるレギュレーションが遵守されている点だ。ご紹介しよう |

  1. 鮮魚処理を施した、笠利産ウンギャルマツの身を利用する
  2. 笠利産ウンギャルマツでとった出汁を利用する
  3. 奄美漁業協同組合の「生もずく」を利用する
  4. 各々工夫して、島への「想い」が詰まった丼にする

更に「笠利ウンギャル丼」として商標登録している点もぬかりない(登録日18/10/26)。最近、奄美を代表する郷土料理について、普及に伴う全体の質低下が目立つ。知名度の違いこそあれ、取組としては参考にすべきではないだろうか。

魚食は生活であり産業であり文化でもある。そこに海があって生き物がいても、獲るためには特殊な技術が必要であり、たとえ獲れても、食べる文化がなければ捨てられることになる。そのロス分を生かして特産品にしてしまおう、現代の嗜好に合った形で食べてもらおうというのが女性部による「魚匠」の取組だ。

最初は、漁にも被害を与えるサメの身を利用した加工品だった。その後、ソデイカ・生もずく・カンパチ・夜光貝と次々に商品化されている。おススメは「あおさんぼう」と「もずくんぼう」。ヤムラランというやつだ。

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忘れてならないのは「魚匠バーガー」。毎週金曜日限定で作られ、店頭と行商で販売されている。バンズも、笠利町内のパン屋でこだわりぬいて作られている。これは一度、食べた方がいい。魚がより一層好きになるはずだ。祭りなどのイベントで出店する場合もあるので、見かけたら即買いを。

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実は、魚匠の各商品については、世界的ソムリエ・田崎真也氏からも助言をいただいている。田崎氏は、大の奄美と言うか笠利ファン。田崎氏が「抜群」と評価する島イショシャの操舵技術と海に魅了され、年数回は来島されている。

「ウンギャルまち」の魅力は、世界基準だ。

漢その三 〜 man to man 〜

取材の段取りを頼んだ男が漁協事務所に入ってきた時、同行したスタッフは、まさか彼が公務員だとは思いもしなかったようだ。肌も髪も赤茶け、外見からは漁師の雰囲気しか感じられない。彼の名は中江康仁。公務員であると同時に、漁師であり農家でもある。受けた印象は間違いではない。

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平成二十年度、彼が笠利総合支所の水産担当になった時から、奄美漁協の時計の針が進み始めた。まずは、房生兄らが取り組んでいた鮮度保持への取り組みを、徐々に成果に結びつけた。公務員として条例上やらなければならない範疇を飛び出し、共に取り組み、サポートを続けた。

「ウンギャルまち笠利」や「魚匠」については、中江がリードしたプロジェクトと言っていい。そろそろ異動という頃になると、組合長自ら市長に残留を直談判し、在任期間は八年に及んだ。これは公務員にとって幸せなエピソードだ。

某国立大学硬式野球部のエースを務めた長身の男は、肩を壊した後、業務上で野球以上の才能を見せ始める。特に、新産業創出の分野を手がけ、産官学を集積する産業クラスターの取り組みの中で彼が育んだ芽は、各々成長を続けている。水産担当後のサトウキビ担当、雇用担当としても、次々と補助事業の導入や新規事業の展開を続けている。

色んな意味を込めて「スーパー公務員」と言える。食事を兼ねた大蔵でのインタビュー中にも、商店街活性化について、ややニッチながら興味深い提案を繰り出してくれた。

しかし、やはりどこまで行っても公務員は公務員なのだ。打率とてそう高くはない。彼の最大のヒット作である奄美漁協の取り組みであっても、やる気と能力とを兼ね備えた当事者との化学反応があってこそ生まれたものであることは間違いない。

ただ、公務員の顔を捨て「腹を割る(man to man)」という基本姿勢は、プロのバイプレイヤーとして僕自身も大いに学びたいところだ。まあ、公務員の鏡と言っている訳ではない。彼の服務上の問題については、僕から言うべき言葉は…ないな笑。

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浜下り

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突然のトゥジ関係の悔やみのため、取材日を挟んで、思いがけず連日笠利に通うことになった。酒席では、ゆっくり親戚やシマの皆さんと語り合うことができた。浜下りにも来いと誘われ、喜んでお邪魔した。

大潮にあたった浜では、のどかな舟こぎが行われる。荒天も予想されたため、生活館での懇親会に重きが置かれているようだ。自ら舟を運び、漕ぎ、直す青壮年。おつかれさまです。

宴席は賑やかだ。敬老者が座の中心にいて、自ら先陣を切って余興を披露する。島唄は、出身の奄美民謡大賞受賞者お2人。子供たちの可愛い余興で大いに盛り上がる中、「だいぶ寂しくなったや」という呟きがあった。聞けば集落には、小中学生ともに3世帯6名しかいないとのこと。

全国の地方で、おしなべて過疎化と少子高齢化が進む中ではあるが、笠利町の人口もここ20年で約2割減(2000年6977人→直近5605人)と楽観視できる状況ではない。酒席で「笠利は合併して損したのよ」と話題になるのは、真偽はともかく無理はない。Iターンが増える一方で、集落行事の負担を避けるように町外で家を建て、転出する若者も少なくないと聞く。

一方、今回のプロジェクトにまつわる明るい話題もある。今春、地元の高校を卒業した房生兄の息子は、跡を継いで漁師になった。他にも続々と後継者が現れ、喜界島などから漁師が移住する例も出始めている。取りも直さず、相対取引によって安定した収入が見込まれ、新規参入も容易になったからだ。今の島の若い子は、仕事さえあれば島で暮らしたいと思っているのだ。

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笠利町と龍郷町が、奄美大島の最もくびれた部分を境に南北に分かれているのは、ご承知のとおりだ。温帯と亜熱帯を分かつ七島灘の渡瀬線とは比較できないが、笠利町とそれ以南とでは、大きく自然の様相は変わっていく。

まず、笠利町には殆ど山らしい山がないため、経験的に雨が少なく感じる。またアマミノクロウサギがおらず、イノシシの被害も少ない。ハブはいるので長く隔絶されていた訳ではないだろうが、時代によっては別々の島として海で隔てられていたとも考えられる。

小島ほどの広さで山も深くはない笠利だが、親密な絆を築きつつ外洋に漕ぎ出す気質が、このまちにだけ燦燦と陽が差しているかのような輝きを与える。

「ウンギャル」の「ウン」は「海」。「ウンギャルマツ」とは「海のような青みがかったフエダイ」という意味になる。笠利のイメージカラーと問われれば、すぐに海の碧が浮かぶ。「ウンギャルまち」とは、中々の命名ではないか。

気づけば浜下りの宴席は、組合長や房生兄と見間違うような漢たちだらけで、怒涛のごとく佳境へとなだれ込んでいった。

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大島紬の明日

「のの」が語る夢

奄美探訪 大島紬 9

掲載:machi-iro magazine #51
文:當田栄仁
撮影:惠 枝美
取材協力:
 本場奄美大島紬協同組合(奄美市名瀬浦上町48-1 TEL0997-52-3411)
 株式会社 都成織物(奄美市名瀬平田町2-11)
 株式会社 銀座もとじ(東京都中央区銀座4-8-12)

奄美探訪ロゴ

幼い頃は、祖母の紬工場に通った。親子ラジオから流れる島唄に、蝉しぐれが重なる。工場の板張りはヒンヤリとして、規則正しい機の音と共に午睡に誘う。かつて奄美の基幹産業とも生命産業とも言われた大島紬の苦境については、既に語り尽くされた感がある。奄美で生まれ育った者はみな、大島紬にまつわる風景に郷愁を禁じえないが、今そこには、諦観と犯人捜しにも似たアンタッチャブルな空気さえ漂っている。大島紬は死んだのか?そんなはずはないと信じるから筆をとる。いざ探訪 —

Kasuri

あらゆる分野において「三大○○」という言い回しが使われるが、「日本三大紬」と挙げた時に、大島紬が外れることはない。呉服の中でも、「紬」という高級おしゃれ着の分野において、今なお「大島」は絶対的な知名度とブランド力を誇っている。

知る人ぞ知る事実だが、現代の大島紬は厳密には「紬」ではない。そもそも紬とは、残り物の繭から手で紡いだ「紬糸」を織り上げた着物を意味する。紬糸だからこそのザックリした洒落感と強度、独特の高級感が持ち味だ。

大島紬の創成期では紬糸が使われただろうが、現在は他の着物同様に「生糸」が使われている。織り方にしても、縦横を交互に重ねる最もシンプルな「平織り」のみ。では何をもって大島紬が高く評価されるのかと言えば、ズバリ「絣」の技術と言える。

「大島紬は二度織られる」と言われる。模様を描く「絣糸」の、染めない部分を綿糸で締めた上で、全体に染めを施したのち綿糸をほどき、並べ直して再び織る。

奄美探訪 大島紬 6

幅約40センチに1,240本並ぶ経糸(たていと)と同密度の緯糸(よこいと)、一本一本に染め抜かれた点が、最終的に織機の上で経緯合っていく様は圧巻だ。

友禅はじめ多くの着物が白生地を後から染めているのに対し、先染めして絣を合わせる技術は、世界的にも散見されるが、大島紬の繊細さと美しさは群を抜いている。点(ドット)をもって描く世界観は、絵画で言えば新印象派か米法山水か。

特に奄美産地については、泥染という、地域の自然に根ざした特徴的な染色技法も合わせて、工程の最初から最後まで、徹頭徹尾、職人の手仕事による。

こうした産地は全国的にも殆ど類がなく、奄美の人々が生み出した「奇跡の織物」と呼んで差し支えない。

挑戦

奄美探訪 大島紬 1

紬組合青年部の黒田会長に取材をお願いして、名瀬平田町の都成織物を訪れる。

現在40歳の黒田さんは、神奈川県相模原市出身。年齢よりも、ずい分と若々しく見える。前職は銀座にオフィスを置く広告代理店で、結婚を機に奄美に来られたIターンならぬ「Y(嫁)ターン」だ。

最初に事務所内で、義父にあたる社長と共に構想段階のお話をうかがう。都成織物は、龍郷柄・秋名バラ・西郷柄といった伝統柄ではなく、伸びやかなオリジナルの大柄に取り組む特色ある機屋(メーカー)であり、製品作りは「構想」から始まる。

ファッション誌、テレビなどの映像、街行く人々、自然界。貪欲にモチーフを求めて、これはと思う柄の図案化を図る。絣を用いる大島紬は、柄の繰り返しなど製作上の制約があるため、コスト面を含め、製品化にたどり着くまでには数年かかることすらある。

作業場に移り、「整経(せいけい)」を見せていただく。図案に基づき、織り上がりを想定しながらハエバタに糸を張っていく作業は、全てが動き出す出発点であり、見た目以上に重要な工程だ。ここで束ねられた糸数の分だけ同柄が作られる、いわゆるロット数となる。

そして、大島紬の「肝」と言える「締(しめ)」だ。この段階で、染めない部分を綿糸で締める防染が施され、柄を作る絣糸となる。他産地では、いまだに手括りで行われているこの作業を、高機でできるよう改良した締機(しめばた)の開発(明治四十年頃)が、大島紬史上最大のリノベーションと言われている。皮肉なことに、力を必要とするため男性中心となっている締職人の後継者不足こそが、大島紬全体として喫緊の課題となっている。

黒田さんご本人には、泥染が終った絣に色を刷り込み、絣から綿糸を解く「加工」の工程を見せていただいた。孤高の日本画家・田中一村が携わった工程としても知られている。黒田さんは、作業に没頭しだすと、楽しくて時間を忘れると言う。

奄美探訪 大島紬 2

素朴な疑問。一見、華やかな世界から地味な伝統産業への転進に、不安や不満はなかったのか?黒田さんとしては、自ら望んだことなのだという。ゼロから一つの商品を作り上げる仕事をしたかったし、正直、社長業にも興味を持っていた。

現在、会社専務の黒田さんは、製造に加えて、出張先で実演を行い販売にも携わっている。お客様の喜ぶ顔まで見られる仕事なんか、そうそうないですよ。黒田さんは充実の笑顔を浮かべている。そこに、斜陽産業に携わる陰のようなものは見当たらない。

前の会社で退社のあいさつをした時、同僚や上司に心底うらやましがられたそうだ。都会の広告代理店なんて、朝9時から夜中の2時3時まで働いて、家には寝に帰るだけ。自分の仕事が喜ばれている実感はないし、実はみんな、仕事さえあれば奄美みたいな土地で暮らしたいと思ってるんですよ。

大島紬に限らず、和装産地に共通する課題は、自ら発信する力だ。独りよがりもいけないが、常に、自分の内面から湧き上がる創作欲と時代の風を感じながら、新たなモノづくりへの挑戦を続けることが必要だ。都成織物のような機屋、黒田さんのような若い作り手の「挑戦」が、明日を切り開く光に見えた。

大島紬が生き残っていくためには、何が必要だと思いますか?という問いに対して、黒田さんの答えはシンプルだった。

「産地が一つになること。そして、切磋琢磨すること。」

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NEXTプロジェクト

昨夏、紬組合青年部が中心となって「本場奄美大島紬NEXTプロジェクト」が立ち上がった。技術継承の瀬戸際に立たされている大島紬を、若い世代の手で作り、同世代に着てもらうことを目的に立ち上げられたクラウドファンディングだ。

大島紬の技術が「高度化」すると同時に「大量生産」が進むと、当然の流れとして「分業化」が進んだ。図案・締・染色・加工・織。それぞれの工程専門の職人が、機屋の統括の下、仕事を受け渡していく。

巨大化した恐竜と似ている。全盛期に我が世の春を謳歌した巨体は、冬の時代を迎えた今、環境の激変に上手く順応できない上に、一つの器官が機能不全を起こすことで、全体の生命すら危うくなっている。

プロジェクトの衝撃と意義は大きい。メンバーの中心は機屋の後継者。本来の業務は製作の統括や問屋筋との交渉であり、昨今は、島外での出張販売も多いと聞く。

近い将来、社長に就任するであろう彼らが、みんなで話し合って柄を決め、糸を発注し、図案を起こす。更には、締〜染〜加工〜織と、会社の壁を超え、自らの手で作業をリレーしていった。

奄美探訪 大島紬 5

社会全体が人材不足に悩む中、職人の減少自体は避けようがない。少ない人数で工程をカバーするには、分業化した工程を複数こなしていくしかない。時には、機屋間で原料や職人の貸し借りも必要だろう。最近の言い方をすれば、今回は、大島紬における「シェアリングエコノミー」の取っ掛かりを作ったと評価できる。

加えて画期的なのは、消費者が購入する段階の上代(じょうだい)価格を、作り手側が決めて公表していることだ。プロジェクトは、産地が生き残っていくために必要な、工賃を含む適正なコストからの価格設定に取り組んでいる。問屋を経由する既存の流通ルートでもネット購入でも同価格とのこと。

これまで、韓国紬問題に代表される技術流出、産地価格の下落など、産地を、中でも職人を苦しめてきた問題の多くは、産地自体がまとまらないことに起因していたように見受けられる。クラウドファンディングとは名ばかりの単なる資金調達が増える中、チーム一丸となったNEXTプロジェクトは、流通を含む大島紬改革の口火を切ったと言える。

現在、クラウドファンディングとしては、目標額を達成して、既に最初の一反目は支援者にお渡しし、流通から引き合いのあった残り五反を製作中。今後の展開を検討している。

並行して、NEXTプロジェクトのメンバー数名は、大島紬の海外展開を目指して「JAPANブランド育成支援事業」に取り組んでおり、今年度、最終年度を迎える。一つの成果として、フランスの生地問屋との商談に目途が立ったとのこと。これからの商業的な展開が楽しみであると同時に、彼らが海外で見聞きしたことが、いつか血肉となって大きな実を結ぶことが期待される。

機が熟していたのだと思う。メンバーの多くが、比較的自由に動ける立場でありながら、充実した仕事をこなす年齢に差しかかっている。産地も流通もこうした取り組みに圧力をかけるどころか、むしろ期待をかけている。何より、メンバーが団結しているし、それは、これから子育てしていこうとする彼らには本当の危機感があるからだろう。

例え話の続きをするとすれば、大型恐竜から小型哺乳類への進化が急がれる。世界自然遺産登録、オリンピック、万博。これからも進むグローカル時代に、過去の遺物ではなく、モードとして大島紬が生きていれば、それこそキラーコンテンツになりうる。冬の時代を乗り越えれば、繁栄の春が待っている。

銀座もとじ

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日本のど真ん中で大島紬を輝かせている奄美出身者がいる。「銀座もとじ」の泉二弘明(もとじこうめい)社長だ。

泉二社長は、陸上を志したものの怪我を負った挫折から、父親譲りの紬をきっかけに、銀座に四店舗を構えるまでに成功を遂げた立志伝中の人物だ。

泉二社長は、「業界の風雲児」とも呼ばれてきた。それは、仕立て上がり価格の明記、業界初の男性専門店の開店、仮縫いサービス、養蚕農家と直接契約をし、一本の糸(プラチナボーイ)からの着物作り等々、かつての呉服業界ではありえなかった「挑戦」を続けてきたからだ。

ぶれることのない哲学は「本物」であること、そして徹底的にお客様の視点に立った店作り。既存の店舗や流通からの圧力を受け続けてきたものと拝察するが、365日粋に着物を着こなして颯爽と歩く泉二社長は、今や業界全体を牽引する存在だ。

泉二社長の郷里への思いは熱く、2012年に大島紬専門店をオープンしている。17年には、350名もの参加者全員が大島紬を着て来場する、ドレスコードが「大島紬」のパーティーの開催や、奄美の織手を一名スカウトし、店舗内に機を置いて「銀座生まれ」の反物を織り上げる取り組みも始めている。

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そして、昨年で13回目を迎えたのが「あなたが選ぶ大島紬展」人気投票だ。泉二社長がセレクトした紬の中からお客様に投票をお願いし、一番人気の大島紬を決定する。一番人気に投票した方の中から、抽選で反物をプレゼントする仕組みだ。

産地からの発信が課題と先に書いたが、それは、産地が何を作ればいいのか分からないという意味でもある。かつては、古典柄か問屋が言うとおりに作れば売れる時代が続いたが、もはや自ら消費者の嗜好やトレンドをつかみにいかなければならない時代だ。

銀座もとじの人気投票は、産地とお客様を結ぶことが大きな目的であり、投票結果や反響の詳細は産地の機屋に伝えられ、今後の製品作りに生かされる。

一方、産地の表彰は、実際に着物を買う消費者ではなく、滅多に着物を着ない地元関係者の審査によって決められている。是非はともかく、顕彰制度の目的自体が、商品を売るための「箔付け」に見える。

銀座もとじの商いは、呉服全般に亘っており、むしろ大島紬はごく一部に過ぎない。しかし、今なお泉二社長は郷里に足しげく通い、産地に銀座の風を届けている。黒田さんはじめ、青年部のメンバーとつながっていることも心強い。

来る3月21〜23日の間、産地両組合を中心に銀座の時事通信ホールにおいて「2019 本場奄美大島紬展 絆kizuna 〜先人から子孫へ,受け継がれる技〜」が開催される。

以前は、奄美の物産展と言えば紬がメインで他の黒糖製品等が付いて来る形だったが、近年はすっかり立場が逆転している。東京でこれだけの催事を単独で打つのは、ずい分と久しぶりではないだろうか。

今回は、銀座もとじをはじめとする小売店や問屋など、流通関係の全面協力を得ていると聞く。産地あっての流通だし、産地だって流通がなければ、お客様にしかるべき形で商品をお届けすることはできない。

催事内容としては、選りすぐりの商品が展示販売されるのはもちろん、各工程の実演や歴史・柄の解説など深みのある内容となる。ここから、本場奄美大島紬再生の第一歩が刻まれることだろう。

「のの」着ろでぃ

僕らの世代は、機屋の後継者として悪戦苦闘している者が少なくない。その中の一人、僕の結婚披露宴の実行委員長までしてくれた男が、若い女性を見かけると冗談半ばで声をかける。

「のの織らんな?」僕はその響きが好きだ。

紬組合はこの4月、あの印象的な「紫ビル」から、浦上の旧県工業技術センターへと移転している。NEXTプロジェクトの原料が機にかかっていると聞いて訪れた。

奄美探訪 大島紬 8

紬組合の移転と同時に、国と財団の支援を受けた織工養成所がスタートしている。十数台の機が並び、職人の意匠と技が凝縮された糸が、美しい指の動きで経緯に織りなされていく。トン、カラカラ。バッタン。ここには、「のの」が語る夢が生きている。

プロジェクトの反物は、千葉から来られて二年目の織工・伊藤さんの手によって織り始められていた。柄の名前はまだ付いていないそうだが、龍郷の要素が小中柄に凝縮された様は、モダンかつレトロで何とも格好いい。

僕自身、ここ数年で紬を着ることに馴染んだ(と思う)。興味はあるがどこに相談に行けば分からないと言う方は、まず紬組合を訪ねていただきたい。小物と共に豊富に取り揃えられたレンタルの着物があるし、その気になれば購入することだってできる。

奄美探訪 大島紬イメージ 1

紬組合事務局には、プロジェクトメンバーでもある森山さんがいて、懇切丁寧にレクチャーして下さる。無料で工程の見学や体験もできるので、まずはお気軽に。

奄美市と龍郷町にお住まいの方については、購入と仕立てに係る費用に対して助成制度が設けられている。特に、新成人については手厚い助成が用意されており、こちらも窓口は紬組合となっている。

全国の着物ファンにとって、大島紬は最高級品であり憧れの的だが、産地の我々にとっては馴染み深い「のの」。あなたの箪笥にも、親戚から譲ってもらった紬が眠っているかも知れない。まずは僕らにできることを。地元から「のの」着ろでぃ。そして最後に。僕はスーパースターではないので断言はできないが、願いを込めて叫ぼう。

大島紬よ「永久に不滅」であれ!

奄美探訪 大島紬 4