撮影:惠 枝美

明治36年(1903年)、台湾から帰国した菊次郎は鹿児島で静かな日々を過ごしていた。

西郷邸跡 志を受け継いだもう一つの「西郷伝」
鹿児島市にある「西郷屋敷跡」。ここで菊次郎は父・隆盛、母・イト(隆盛3番目の妻)と少年時代を過ごし、台湾からの帰国後に一家団欒の日々を送った。

 あの西南の役から26年。風景は様変わりし、穏やかな鹿児島の西郷邸にて久しぶりの妻久子と五人の子供たちを交える一家団欒の日々。

 しかし鹿児島での静けさとは逆に、日本にはロシアとの関係悪化という暗雲が近づきつつありました。

 明治27年(1894年)の日清戦争に勝利したのち、清の遼東半島が一度は台湾同様、日本に割譲されたのですが、その後ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉により、遼東半島は清に返還して一部を租借することに。ところが返還するやいなや、上記の三国そしてイギリスを含めた四カ国が日本以外にも遼東半島の各地域を清から租借するようになります。

 結局、清に味方すると思わせておきながら東南アジア同様の欧米植民地化が進む一方でした。

 さらに台湾での抗日運動同様、「外国勢力を追い払おう」という義和団事件が起きます。元々はキリスト教布教に対する反キリスト教活動でしたが、1899年頃から「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げた大規模な武装排外運動に発展しました。

 当初は欧米列強の要請を受け、義和団鎮圧にあたっていた清王朝でしたが、1900年6月、義和団とともに外国勢力を排除することに方針転換し、列強に宣戦布告することとなります。

 これに対し、日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアハンガリー帝国の八カ国は連合軍をなし、二ヶ月も経たない内に首都北京・紫禁城を制圧。清朝は4億5千万両という莫大な賠償金の支払いと更なる植民地化を余儀なくされてしまいました。

 そして義和団事件後、各国軍が撤退した後も、ロシア軍だけは中国東北部に留まり現地を占領。ロシア軍の南下を危惧するイギリスは、牽制のために明治35年(1902年)、日英同盟を結びます。このように緊張感が高まり、明治37年(1904年)2月、日露戦争開戦。最初の激戦地はロシア軍が籠もる中国東北部の旅順要塞でした。

 西南の役を体験して右脚の膝から下を失い、日清戦争後の台湾の人々を知った菊次郎はどのような思いでこの時代の流れを見ていたのでしょう。

 同年7月、東京の寅太郎宅に滞在している時に、ある人物が菊次郎に会いに来ました。当時京都市長を務めていた内貴甚三郎です。内貴は京都の呉服問屋「銭清」に生まれ、京都市会議員を経て、明治31年(1888年)に初代民選京都市長に就任した人物です。彼は衆議院議員選挙に出馬するにあたり、なかなか実現できずにいた京都市の都市整備事業を実行出来る後任者を探していました。前京都府知事であった貴族議員の北垣国道に相談したところ、北垣の旧知の貴族院議員、九鬼隆一が菊次郎を推薦したのです。九鬼は菊次郎の在米大使館時代に公使を務めており、菊次郎の人柄や能力を買っていました。また菊次郎はまだ40代前半にして抗日運動の激しかった台湾での行政経験があります。更に外務省出身で同郷の出身者が各省庁に多く、大山巌元帥という中央へのつながりがあるにも関わらず、特定政党に属していません。この政党色がないということが内貴にとって一番の決め手でした。

 というのも内貴の目指した都市整備事業はかなり大掛かりなものであり、利権を取り沙汰される可能性が高い。だからこそ京都に縁もゆかりもない菊次郎を気に入ったとも言えます。それほどこの事業は大規模なものでした。

西郷邸跡 志を受け継いだもう一つの「西郷伝」
西郷隆盛と菅実秀が対話する「徳の交わり銅像」

 幕末の戊辰戦争後、京都は昔ながらの町のまま産業化により人口が増大。人が多くなるほど井戸からの地下水供給量は不足し、道幅は狭いのに人通りが多く、近代化しなければならないのに電力の敷設はままならず、といった状況であり、「琵琶湖から更なる上水道を引く」「電線の敷設を拡大する」「運搬と人の流れを改善するための道路拡張」という内貴の描く都市整備は優先すべき事業でした。しかし、試算してみたところ京都市税収の数十年分という余りにも莫大な予算が必要と判明し、議会も市民もそんなことは不可能と考えていたのです。とは言えいつまでもそんな調子では一向に改善出来ない。内貴はそんな京都市の窮状を菊次郎に説明しました。宜蘭の場合は一からの近代的街づくりであり、ある程度の強制力がありました。しかし今回は1100年の歴史を持つ都。市議会も住民も、何世代にも渡って住んできたという自負が強い。議会との衝突は内貴同様、目に見えています。凡人であれば尻込みするような役目でしかありません。それにも関わらず、菊次郎はこの内貴の依頼を承諾。

 菊次郎43歳。再び、大きな試練が始まろうとしていました。


◯参考文献
「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)


machi-iro magazine #54 掲載