掲載:machi-iro magazine #44

泉和子フォトエッセイ
写真:泉和子

道は一変して恐怖なものへと化した。

あなたは道を歩く時、その道の名の由来や其処に昔は何があったのか、などと考えたことがあるだろうか。今回はシマ(集落)の道について書いてみたい。

シマの道は、人の生活圏においてカミミチ(神道)、クンキリミチ(山を横切る近道)などと呼ぶ道が機能してきた。各集落における道の分布は多い。次の集落へ続く道には、其々その集落名が付いている道もある。例えば、秋名道、芦花部道というふうに。そして、坂になった道は、方言でヒラとか、ビラと呼ぶ。

私の幼い頃は、家の横の細長い道が遊び場だった。隣近所の子や同級生、姉妹たちとままごと、おはじき、テンスゥジンヤ(陣取りゲーム)などをして遊んだ。自転車でやってくる紙芝居は、水飴をなめながら見た。ナンカンジョセ(七草雑炊)を貰いに行った道、父の亡骸が入った棺桶が出て行った道、行事の時も大切な役割をしてくれた道だ。黒飴作りの小父さんの作業場や新聞社、昼も電球の明かりを照らし、鶏の雛を孵化させていた養鶏舎など、それらの敷地に隣接した道の風情があった。時々、夜になると、路地の中ほどに裸電球の明かりが灯った。そこは、旧警察所の裏側にあたり、警察医による検視解剖が行われていた。明かりの灯る夜は、不気味でその道を通ることができなかった。道は一変して恐怖なものへと化した。

シマの道にまつわる伝説や慣習は、不思議なものが多い。母から聞いた名瀬の道の俗信を一つ。ムカシ、現在、建設中の市役所横の道には、ミンキラウヮー(耳のない豚)という妖怪が出没したそうだ。その妖怪が人の股間をくぐると、人は死ぬと言う。だから、くぐらせないように足を交差させながら、人々はその道を通ったそう。なぜ、そうまでして、その道を通らなければならなかったのだろう。回り道をすればすむのに・・・。

古い名瀬の街の通り名で、印象深い名を挙げよう。今の中央通りを海の方から山の方へ歩いて行くと、アーケードが終わる付近の左側に「あざまご帽子店」の看板を残した木造の建物がある。通り名から名付けたと思われる店名だ。店の手前を左手に曲がった路地が、「あざまご通り」と呼ばれていた通りの一部にあたる。道は少しカーブして上がり、現在の内山商事のあたりで永田橋通りに繋がっていたようだ。「あざまご」は、もし、漢字を宛てて意味付けしたとすると、地域の字を流れる川の名が発祥だというから、「あざ(字)ま(間)ご(川)」。境界線の川だったのか。川その物は河川工事で無くなっていたが、川の名は残った。そしてそれは、昔の伊津部と金久を繋ぐ主要な商店街の一部の僅か百メートル位の通りの名だったと言う。今では、往時の面影は「あざまご帽子店」の使われなくなった看板と書籍にわずかな記述が見られるだけである。

以前は、集落のユイワク(共助)で道普請というのがあった。集落内の道や集落と集落間の道の補修をし、助け合って集落を守ってきたのだ。そんな時にシマ唄が歌われ、シマ料理も作られたに違いない。

そうやって道の形態やシマの様相は変わっても、道はその時その時、人の暮らしに寄りそうようにあったのだ。変わりゆくものがあっても変わらないものもある。それを大切にしていきたい。

*参考文献『名瀬大正外史』1984池野幸吉

気になる新レポーターは⁉️

マチイロマガジンの人気コーナー、奄美大島開運酒造さんpresents「美味しいって幸せ♡」の打ち合わせを行いました♬

今回取材させていただく「わきゃ厨房 み。」さんの前で📷

そして‼️

なんと❗️新レポーターさんは💕

Img 2542

今回は、カメラのこっち側です(^^;)

ぜひぜひ、マチイロマガジン55号をお楽しみに〜💕

お便り #05

届いたお便りをご紹介

美味しいって幸せ #05 にお便りが届いたのでご紹介します。

⚪︎神奈川県 K様

毎年ベイスターズのキャンプを見るために奄美に行っていて、そこで知り合ったまちゃこさんから動画を紹介してもらいました!
応募するの2回目です。
第1回のときは「れんと」を送っていただきめちゃくちゃ嬉しかったです。
昨年は「やんご祭」のタイミングで奄美に行くことができ、焼酎をたくさん飲むことができて嬉しかったです。
ベイスターズがきっかけで奄美に毎年行くようになりましたが、今は黒糖焼酎を飲むために行ってる感じです。
まちゃこさんが出なくなっちゃうのは寂しいですが、これからも動画やSNSで黒糖焼酎の魅力を発信してください。
拡散します!!

⚪︎東京都 ペンネームいはち様

MISHOLANBAR susuMUCHO さんは市街地からのアクセスもよさそうですし、今度島を訪れるときには行ってみたいです。
株式会社奄美大島開運酒造 さんは、一度工場見学させていただきました、とても楽しかったです。
サトウキビジュースおいしかったなあ。
パッションのリキュールもさぞおいしいんだろうと応募しました、よろしくお願いします!

⚪︎神奈川県 S様

まちゃこさん出演最終回ということで寂しくなります…
でも、今後まちゃこさんにかわる島のアイドルが出てくることを楽しみにしております!

⚪︎沖縄県 O様

毎回、まちゃこが美味しそうに飲んで食べる姿に癒されます(*?˘?*)
凄く楽しませていただいてます。
紹介するお店には、是非行ってみたいと思いました!


お便りありがとうございます。
関係者一同、励みになります。

#05 MISHOLAN BAR susuMUCHO

宇検産しいたけのパスタ

グルメレポーターまちゃこが、奄美大島の人気店から「おすすめ料理」をご紹介する、まちゃこの美味しいって幸せ♡

美味しいって幸せ5 5

第5回目は、なぜまち商店街から「MISHOLAN BAR susuMUCHO」をご紹介します。

MISHOLAN BAR susuMUCHO
ミショランバー ススムーチョ

美味しいって幸せ5 2
電話0997-53-5077
住所鹿児島県奄美市名瀬末広町16-9 進ビル1F
営業ランチ11:30〜14:00(火・木・土)/ディナー17:30〜22:00/日曜定休
美味しいって幸せ5 8

視聴者プレゼントのお知らせ

美味しいって幸せ5 9
美味しいって幸せ5 7

「宇検村で収穫したパッションフルーツたっぷり」
すっきりした「れんと」とパッションフルーツ果汁が甘酸っぱく爽やかな味わいを広げます。お酒があまり強くない方にもオススメです。
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ご購入はコチラにて
https://shop.lento.co.jp/html/products/detail/15

すっきりパッション500ml(化粧箱入)を、抽選で5名様にプレゼント。

ご応募方法

下記のフォームメールにて、動画内に出てくる文字を順に並べて必要事項と一緒に記載し、送信されてください。

視聴者プレゼント応募フォーム

7、20歳以上ですか?
はいいいえ

締切日時

2020年3月31日(火)23時59分必着

スポンサー

株式会社奄美大島開運酒造
http://www.lento.co.jp

奄美ミキカレー

掲載:machi-iro magazine #52

奄美の新ソウルフード

奄美ミキカレー完成写真 0001

グリーンカレーに、発酵食品で奄美のソウルフード「ミキ」を加えることでコクが増し、辛さもまろやかになり食べやすさと美味しさがアップ!
ぜひ一度お試しください。

材料(4人分)

  • 鶏もも肉:2枚
  • ナス:2本
  • 赤パプリカ:1個
  • 黄パプリカ:1個
  • しめじ:1株
  • ココナッツミルク:400ml
  • ミキ:500ml
  • 水:500ml
  • ナンプラー:30~40cc
  • グリーンカレーペースト:50g
  • 塩・こしょう:適量
  • 小麦粉:適量
  • 油:適量

作りかた

奄美ミキカレーレシピ写真 0001

野菜・肉をカットする。


奄美ミキカレーレシピ写真 0002

鶏もも肉に塩・こしょうをして、小麦粉をつけフライパンで焼き目がつくくらいに焼く。


奄美ミキカレーレシピ写真 0001 2

グリーンカレーペーストをココナッツミルクと水で煮溶かす。


煮溶かしたペーストに鶏肉・ナンプラーを入れ、弱火でコトコト30分ほど煮込む。


みき・カットした野菜を入れ、塩・こしょうで味を整える。

奄美ミキカレーレシピ バナー 0001

動画

シェフ自身がつくる、作りかたの動画です。ご参考にされてください。

シェフ

MISHOLAN BAR susuMUCHO 進シェフ

奄美ミキカレーレシピ写真 0011
ポイント
  • お好みで、鶏もも肉を鶏手羽先(10本程度)に変えてもOKです。野菜もお好みでアレンジされてください。
  • ココナッツミルク缶は沈殿してることがあるので、よく振ってから開けてください。
  • ミキを入れた後は、焦げ付かないようにこまめにかき混ぜてください。
MISHOLAN BAR susuMUCHOの店舗情報はこちら

Special Thanks

~Dining・めし家~ふくちゃん

その七

撮影:惠 枝美

明治36年(1903年)、台湾から帰国した菊次郎は鹿児島で静かな日々を過ごしていた。

西郷邸跡 志を受け継いだもう一つの「西郷伝」
鹿児島市にある「西郷屋敷跡」。ここで菊次郎は父・隆盛、母・イト(隆盛3番目の妻)と少年時代を過ごし、台湾からの帰国後に一家団欒の日々を送った。

 あの西南の役から26年。風景は様変わりし、穏やかな鹿児島の西郷邸にて久しぶりの妻久子と五人の子供たちを交える一家団欒の日々。

 しかし鹿児島での静けさとは逆に、日本にはロシアとの関係悪化という暗雲が近づきつつありました。

 明治27年(1894年)の日清戦争に勝利したのち、清の遼東半島が一度は台湾同様、日本に割譲されたのですが、その後ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉により、遼東半島は清に返還して一部を租借することに。ところが返還するやいなや、上記の三国そしてイギリスを含めた四カ国が日本以外にも遼東半島の各地域を清から租借するようになります。

 結局、清に味方すると思わせておきながら東南アジア同様の欧米植民地化が進む一方でした。

 さらに台湾での抗日運動同様、「外国勢力を追い払おう」という義和団事件が起きます。元々はキリスト教布教に対する反キリスト教活動でしたが、1899年頃から「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げた大規模な武装排外運動に発展しました。

 当初は欧米列強の要請を受け、義和団鎮圧にあたっていた清王朝でしたが、1900年6月、義和団とともに外国勢力を排除することに方針転換し、列強に宣戦布告することとなります。

 これに対し、日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアハンガリー帝国の八カ国は連合軍をなし、二ヶ月も経たない内に首都北京・紫禁城を制圧。清朝は4億5千万両という莫大な賠償金の支払いと更なる植民地化を余儀なくされてしまいました。

 そして義和団事件後、各国軍が撤退した後も、ロシア軍だけは中国東北部に留まり現地を占領。ロシア軍の南下を危惧するイギリスは、牽制のために明治35年(1902年)、日英同盟を結びます。このように緊張感が高まり、明治37年(1904年)2月、日露戦争開戦。最初の激戦地はロシア軍が籠もる中国東北部の旅順要塞でした。

 西南の役を体験して右脚の膝から下を失い、日清戦争後の台湾の人々を知った菊次郎はどのような思いでこの時代の流れを見ていたのでしょう。

 同年7月、東京の寅太郎宅に滞在している時に、ある人物が菊次郎に会いに来ました。当時京都市長を務めていた内貴甚三郎です。内貴は京都の呉服問屋「銭清」に生まれ、京都市会議員を経て、明治31年(1888年)に初代民選京都市長に就任した人物です。彼は衆議院議員選挙に出馬するにあたり、なかなか実現できずにいた京都市の都市整備事業を実行出来る後任者を探していました。前京都府知事であった貴族議員の北垣国道に相談したところ、北垣の旧知の貴族院議員、九鬼隆一が菊次郎を推薦したのです。九鬼は菊次郎の在米大使館時代に公使を務めており、菊次郎の人柄や能力を買っていました。また菊次郎はまだ40代前半にして抗日運動の激しかった台湾での行政経験があります。更に外務省出身で同郷の出身者が各省庁に多く、大山巌元帥という中央へのつながりがあるにも関わらず、特定政党に属していません。この政党色がないということが内貴にとって一番の決め手でした。

 というのも内貴の目指した都市整備事業はかなり大掛かりなものであり、利権を取り沙汰される可能性が高い。だからこそ京都に縁もゆかりもない菊次郎を気に入ったとも言えます。それほどこの事業は大規模なものでした。

西郷邸跡 志を受け継いだもう一つの「西郷伝」
西郷隆盛と菅実秀が対話する「徳の交わり銅像」

 幕末の戊辰戦争後、京都は昔ながらの町のまま産業化により人口が増大。人が多くなるほど井戸からの地下水供給量は不足し、道幅は狭いのに人通りが多く、近代化しなければならないのに電力の敷設はままならず、といった状況であり、「琵琶湖から更なる上水道を引く」「電線の敷設を拡大する」「運搬と人の流れを改善するための道路拡張」という内貴の描く都市整備は優先すべき事業でした。しかし、試算してみたところ京都市税収の数十年分という余りにも莫大な予算が必要と判明し、議会も市民もそんなことは不可能と考えていたのです。とは言えいつまでもそんな調子では一向に改善出来ない。内貴はそんな京都市の窮状を菊次郎に説明しました。宜蘭の場合は一からの近代的街づくりであり、ある程度の強制力がありました。しかし今回は1100年の歴史を持つ都。市議会も住民も、何世代にも渡って住んできたという自負が強い。議会との衝突は内貴同様、目に見えています。凡人であれば尻込みするような役目でしかありません。それにも関わらず、菊次郎はこの内貴の依頼を承諾。

 菊次郎43歳。再び、大きな試練が始まろうとしていました。


◯参考文献
「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)


machi-iro magazine #54 掲載

伝えたい奄美料理

掲載:machi-iro magazine #52

泉和子エッセイ島料理
ヨモギの天ぷらとモズクの天ぷら(料理、撮影、泉 和子)

食べるものほどストレートに心を伝えるものはありません。

 我が家でフツムチ(ヨモギ餅)を作る時の調理道具は、すり鉢とすりこ木。湯がいたニシヨモギの繊維や蒸かしたサツマイモをつぶすのにとても適しているからです。湯がいたヨモギをすり鉢に入れたら、すりこ木を右回りに丁寧に繊維をつぶします。食材にエネルギーを注ぐようなイメージをすることが大切。時間はかかりますが精一杯手をかけて作る、食材そのものの命を大切にする調理法だと思います。料理の下ごしらえなど、めんどうくさいと思う気持ちもあるかと思いますが、時には、丁寧に時間をかけて作ってみると何か気付きがあるものです。調理する時間が愛おしく思えてきて、丁寧に時間をかけて作った料理が宝ものになるでしょう。

 ナガシ(梅雨)の季節になりました。梅雨の晴れ間に、時季に芽吹いたヨモギの新芽を摘んで天ぷらを作りましょう。春の植物の苦みを食べ、やがて来る日照りの夏に負けない身体を作りましょう。香りの強いヨモギは邪気を祓ってくれる植物で、年中行事にも使われます。サンガツサンチ(3月3日)は女の子の節句。フツムチ(ヨモギ餅)を作って先祖に供え、健やかな成長を願います。ゴガツゴンチ(5月5日)は男の子の節句。菖蒲とヨモギを軒先に下げて厄を祓い、逞しい成長を願います。最近は、中国を経由して本土から入ってきた菖蒲湯に入る風習が奄美にも伝わり、香り豊かな菖蒲とヨモギ湯に入る家庭が見られるようになりました。邪気払いや無病息災など、香りの強い植物に託して祈る島の人々の心が伝わってきます。

 その季節が来ると食べたくなるものはありませんか。春から初夏になると、コサンダケ(ホテイチク)の味噌汁やタケノコご飯、ヒキ(スズメダイ)のから揚げ、白身魚と豆腐のつきあげ、ネギ怒田、秋には、茄子の肉味噌のはさみ揚げや米茄子の肉味噌のせ、風の強い冬にはあったかいトリンシル(鶏肉汁)や塩豚のウヮンホネヤセ(豚骨野菜)などが食べたくなります。奄美の山や海、自然からの恵みは、その時季にしか味わえません。みんなで分けて食べられるだけをいただきましょう。

 あの日、あの時、忘れられない味があります。故郷を離れてもどこか懐かしく、恋しいのが奄美料理。奄美では手数をかけて、時間をかけて作った料理のことをテアブラがのった料理と表現します。でも、忙しい日は時短メニューでどうぞ。休日の余暇は、地場産食材を使った常備菜を作るなど、シマの暮らしを楽しむことがなにより。先人たちが伝えてきた心とともに、奄美料理を伝えていきましょう。

テッポウユリ

掲載:machi-iro magazine #52

machi-iro magazine エッセイ 島イロ図鑑 テッポウユリ
胡粉色

和色名:胡粉色【ごふんいろ】

Color Code:#fffffc
RGB:R255 G255 B252
CMYK:C0% M1% Y2% K0%

 四月になると島のあちこちで見かける白い花、テッポウユリ。もともとは島の外から入って来た植物ですが、今は畑だけでなく道端や崖などに自生しています。私が仕事をしている奄美市ICTプラザかさりの駐車場にもたくさん生育していて、季節になると高貴な香りを辺りに漂わせてくれます。今回使った写真の立派なテッポウユリも駐車場に咲いていたものです。

 都会ではお花屋さんでしかお目にかかることのできない白く可憐な花、テッポウユリ。沖永良部島で栽培された「エラブユリ」というブランドは全国的に人気です。

 島では道端に咲いているというのがスゴイですね。島の百合としては、請島に自生している鹿児島県指定の天然記念物ウケユリも有名です。請島を訪れた際、自生している場所に案内していただきましたが、まだつぼみの状態でした。咲くととても良い香りがするのだそうです。

 百合は、英語ではリリー。奄美にも縁がある山田洋次監督の『男はつらいよ』では、寅さんの憧れの女性の役名がリリーさんでした。可憐なという形容詞がピタリとハマる花の一つです。リリーさんが暮らしていて寅さんが転がり込んだという設定でロケ地にもなったお家が、今は加計呂麻島の諸鈍で「リリーの宿」という一棟貸しの宿になっています。

 さて、今回私が選んだ色は「胡粉色(ごふんいろ)」。ごくわずかに黄みがかった白色です。真っ白というのは少し冷たい感じがしますが、この胡粉色は純白に少し柔らかさを出した白色です。胡粉は日本画で使う画材で、貝の殻を焼いたものを砕いて作る顔料です。古代中国の「胡(こ)」から伝わった色で、もともとは鉛で出していた色が、後に貝の殻に素材が変わったという歴史を持っています。

 茶道で使われる白い炭「枝炭」は、炭にこの胡粉を塗ったものです。細い枝が二股や三股になった白い炭は、とても美しい材料です。胡粉は、日本画材の絵の具としてはもちろん、自然素材ということで最近ではネイルの材料としても活用されています。

その六

撮影:惠 枝美

明治35年(1902年)、12月。
菊次郎は生まれ故郷である奄美大島の龍郷にて、夏に急逝した母愛加那の墓前に。

菊次郎台湾記念碑
西郷庁憲徳政碑(台湾 宜蘭市)

 6月に叔父従道が亡くなり、9月には母までも鬼籍の人に。今まで片脚を失い、父を失い、幾度も辛い時期を乗り越えてきた菊次郎でしたが生母の死の衝撃はあまりに大きく、宜蘭支庁長の職を辞任し、日本へ帰国する事となりました。宜蘭の人々は菊次郎との別れを惜しみ、後に宜蘭川堤防の西郷庁憲徳政碑建立へと至ります。

 墓前で思うのは亡き父、隆盛が最期に残した言葉。

 「親に孝養を尽くせ」と父は言い残したのに、自分は亡き母に何をしてやれたのだろうか。宜蘭の行政が軌道に乗ったらまた奄美の母のところに寄ろうとは考えていたものの、今となっては母を優先しなかった事が悔やまれるばかり。特に妹菊草(大山菊子)の家庭の状況に関しては、母に心配をかけてはならぬと考えてあまり伝えてはいなかったものの、義理の弟である大山誠之助の素行が悪く、到底幸せに暮らしているとは言えないものだったのです。

菊次郎・菊草家族写真

 菊次郎と同じく父隆盛と母愛加那の間に生まれた菊草は、明治9年(1876年)に13歳で鹿児島の本家に引き取られ、以降、実母に会うことはありませんでした。

 明治12年、菊草は許嫁であった父隆盛のいとこで、13歳年上の大山誠之助と結婚。誠之助は大山巌元帥の弟でありながらも西南戦争では薩軍の小隊長として参加していました。

 途中、負傷して官軍に捕らえられた際に、大山巌の実弟と思われたくなかったがためか大山新助と名乗り投獄されてしまいます。ところがこの名乗りが刑を軽くするための改名と思われ、後々まで薩軍の仲間にそしられる原因となってしまいました。

 元々は弓道の矢を造る特技の持ち主でしたが、赦免されてからというもの殆ど仕事をせず酒をあおり、妻の菊草に手を上げる始末。菊草との間には米子、慶吉、綱則、冬子と四人の子供に恵まれたものの、兄の威光で借金を繰り返します。当初、誠之助・菊草夫妻と共に鹿児島の大山家で同居していた大山家の長男・大山成美の未亡人で、西郷隆盛の実の妹である安子も、明治22年に娘を連れて東京の大山巌邸へ移ってしまいました。

 明治26年1月5日、大山巌は菊次郎宛てに一通の手紙を送ります。「実弟誠之助がまた例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。有馬様(有馬糺右衛門=大山巌の姉・国子の夫。西郷小兵衛の未亡人松子の父)、お安様(安子)に明朝集まってもらい相談する。西郷家は沼津(の別荘)に行っていて留守なので帰京次第相談するつもりだ」という内容でした。この後、誠之助の借金を清算するために鹿児島の大山家の屋敷は処分することとなり、愛加那が亡くなった明治35年当時、菊草は東京にて大山巌の援助の下、結婚生活を続けていました。

 当時既に名誉を回復した西郷隆盛の娘であり、海軍大臣の姪であり、陸軍元帥の弟に嫁いだと聞けば、傍目には「あんな南方の辺鄙な島の出身でありながら、なんと恵まれた女性」と思われたかもしれません。しかし実際には、父と言えど顔をあわせることが出来たのはわずか1年ですぐに死別、17歳で嫁いでからというもの、血の繋がった兄は鹿児島どころかほとんど国内におらず、夫は頼りにならず、幼い子供たちを抱えての孤独な生活であったと思われます。

 このように書くと夫である大山誠之助が相当な悪者であるようにも感じられますが、もしも大山家・西郷家が、明治期においてこれほど優秀な人材を幾名も輩出していなければ、誠之助の人生も違ったものになっていたのかもしれません。

菊次郎相関図

 実兄は陸軍大将、いとこ隆盛は誰もが知る維新の傑物、その弟の従道は日清・日露戦争で連勝した海軍大将、義理の弟の菊次郎は片脚が不自由ながら外務省・台湾総督府・宜蘭庁長と、人に求められる以上の手腕を振るう並外れたエリートばかり。一方、誠之助はと言うと、西南戦争で高い理想を掲げて参戦したはずが、気がつけば時代の波に取り残され、他の兄弟縁者との差は開くばかり。

 そんな孤立感が誠之助を自堕落な生活へと溺れさせていったのかもしれません。

 これまでの記述で菊次郎を「偉大な父と親戚の七光でうまく出世した」と考える人もいるかもしれませんが、誠之助の存在は、むしろそのような七光は役に立たない時代であったという証明ではないかと思われます。七光でどうにかなるのであれば、誠之助がこれほど堕落の一途を辿ることはなかったでしょうし、菊次郎が反日感情渦巻く台湾へ赴任することもなかったでしょう。安全地帯である東京の官公庁で勤務が続いたはずです。

 西郷菊次郎と大山誠之助。共に薩軍として戦った二人でしたが、その後の25年の歳月は、二人の人生を大きく隔てたのでした。


◯ 協力
龍郷町教育委員会 「西郷隆盛と菊次郎展」記念誌
◯ 参考文献
「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
◯ 参考ウェブサイト
「西郷隆盛の妻、および西郷家の女性たち」


※まち色編集局より
当サイトの西郷 菊次郎・菊草兄妹とその家族の写真と、西郷 菊次郎 相関図は、著作権を龍郷町教育委員会が有しているため、私用・引用を含む全ての無断利用を禁止します。
使用許諾の問合せは龍郷町教育委員会 0997-69-4532 まで。


machi-iro magazine #53 掲載

奄美のことば

泉和子エッセイ49
参考書籍の数々 写真:泉 和子

時代は変わった

 島の私たちの世代は、方言を話すのは禁止で、標準語を使いなさいという教育を受けた。でも、友だち同士や家では、名瀬で使われていたトン普通語で自分のことを男子はワン、女子はワシと、大きな声で可笑しげもなく喋っていた。その頃は、こんなにそれぞれの島やシマ(集落)のことばが貴重なものであるということを私たちは想像出来なかった。だから、普通にその教えを受けた。

 大人になって、島々に伝わる昔話に出合った。昔話の世界は、奄美の方言で語られてこそ、その面白さや微妙な表現が活かされ、意味を伝えることが出来る。昔話の重要さに気づいた先人たちは激動の時代の中にあって、古語が残るそれぞれの島やシマの昔話を丹念に聞き取り、テープを起こしてまとめている。お陰で私たちは、今でも貴重な昔話に触れることが出来る。

 奄美群島に伝わる昔話の本を紹介する。『奄美大島昔話集』田畑英勝、『東北と奄美の昔話』島尾敏雄・島尾ミホ、『久永ナオマツ嫗の昔話』山下欣一・有馬英子、『福島ナヲマツ嫗昔話集』有馬英子、『奄美の生活と昔話』長田須磨、『大和村の昔話』山下欣一・登山修・児玉永伯・重信三千子・重信和子、『南大島の伝説・民話・ことわざ』満元毅、『住用村和瀬の民話』本田碩孝、『保マツ嫗昔話集』本田碩孝、『池水ツル嫗昔話集』本田碩孝、『喜界島昔話集』岩倉一郎、『徳之島の昔話』田畑英勝、『徳之島民話集』水野修、『徳之島の昔話』前田長英、『徳之島の昔話』福田晃・岩瀬博・松山光秀・徳富重成、『沖永良部島昔話集』岩倉一郎、『沖永良部島昔話集』関敬吾、『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』宗岡里吉、『瀬戸内町の昔話』登山修、『奄美・笠利町昔話集』笠利町教育委員会・立命館大学説話文学研究会、他がある。どの本も、先見の目で昔話の美しい方言の語りを残してくれている。その多くが音声で聞けないのは残念であるが、それぞれの話者のシマ言葉が余韻とともに聞こえてくるようである。手に取って、声にして読んでいただきたい。

 ある席でこんな話があった。島の若者が「チジン(知人)を叩く」と言っている。びっくりして良く聞いてみると、「ツヅィン(太鼓)を叩く」の聞き間違いであった。方言はきちんと発音しないと誤解を招く事態にも成りかねないと事例を交えて方言伝承に警鐘を鳴らした。会場の皆が大笑いしていたが、それぞれの心に深刻さが伝わったに違いない。

 シマ唄の特徴の一つもやはり方言で唄われることである。方言の発音が可笑しいとどんなに歌唱力があってもナツカシャ(懐かしい)が伝わらない。カサンウタを唄う人は笠利の方言、例えば、佐仁なら佐仁の特徴ある言葉で唄うのが佐仁のシマ唄である。方言が話せない場合は、島唄を習うと同時に、方言も習ってほしい。例えば、真似るところから入る、絵画なら模写、書道なら臨書だ。個人差はあるが、外国語を覚えるように、方言を習って真似ることでより近づくと思う。

 2009年、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、世界で約2500の言語が消滅の危機にあると発表した。日本では、奄美の方言を含む8言語(八重山語、与那国語、沖縄語、国頭語、宮古語、八丈語、アイヌ語、奄美語)が挙げられている。奄美語は、集落が違えば言葉も違うと言われるほど多様性に富んだ言語である。

 時代は変わった。あの頃、方言で話すなと教えられたのに、この頃は、消えかかっているから方言を話して奄美のPRに役立たせよという。奄美群島をこよなく愛する私たちは、今を大切に次世代へと自然や文化を残していかなければならない。平和を願うユネスコの取り組みとともに。

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