その二

1881年(明治14年)2月、数え年21歳になった西郷菊次郎は鹿児島の本家へ

西郷菊次郎伝 Machiiro 記事写真 1
奥に広がる椎の木は樹齢200年を余るとか。西郷菊次郎の父隆盛も目にしていたかもしれない。奄美自然観察の森にて
撮影:惠 大造

 義母のいとを始め、西郷家の家族は菊次郎が元気になって戻ったことを喜びましたが菊次郎の復調を待っていたのはそれだけではありませんでした。東京にて陸軍卿を務める大山巌元帥(父隆盛のいとこ)、参議を務める叔父の西郷従道(父隆盛の弟)も菊次郎が気力を取り戻し、新しい国づくりのために働くことを願っていました。

 当時は西南の役から4年。鹿児島では未だ官軍についた大山や従道を「裏切り者」と見る向きも少なくありません。しかし、いつまでも恩讐に囚われていては何も解決することは出来ませんし、せっかく留学して培った英語力を用いる場も限られます。右足の治療と義足を作り直す必要もあった事から、菊次郎は上京して従道の家に世話になります。そしてそれまで留学や参戦、療養で接する機会が少なかった国学(国史、書道、神道、文学など)と漢学を改めて学びたいと叔父に相談した後、鹿児島出身の学者重野安繹から直接学ぶことになりました。

 重野安繹はかつて父である隆盛と同時期に奄美大島へ遠島処分を受けていたことがあり、幼い頃の菊次郎を覚えていました。重野だけでなく、従道や大山巌もこの時点で菊次郎の成長をかなり期待していた節があります。まだ20歳そこそこの若者を何故それほど買っていたのでしょうか。

 これは私の個人的な推測ですが、菊次郎が当時の本州の士族出身の若者としてはありえない程多くの視点を経験してきたからだと考えます。

 生まれは奄美大島の名家の一員。しかし、父が徳之島・沖永良部島へ遠島された際には母子家庭の貧困も味わっています。また、周囲は未だ厳しいサトウキビの取り立てに苦しむ農民が多い時代でした。

 鹿児島に移り住んでからは維新に尽力した大人物の息子でありながらも「大島出身の庶子」という差別も味わったことでしょう。続く少年期にはまだまだ発展中の若い国アメリカで英語を学び、異なる文化を持つ人々とも交流できるコミュニケーション能力を培ったこと。そして若干16歳で戦闘への熱気や高揚も一転、敗軍となる惨めな気持ちを味わい父も片足も失い、そこからまた立ち直ったこと。

 年齢こそ若いものの菊次郎は既に強者と弱者、双方の立場を経験し、多くの視点や価値観から判断する人間に成長していました。

 それまで鎖国していたのに開国して欧米文化を取り入れ、士農工商ではっきり区分されていた身分制度が撤廃され、昨日までの価値観がひっくり返される事も少なくない中、政府内部は薩摩・長州の昔ながらの教育しか受けていない士族出身者が大部分を占めるという状況の中では、稀有な資質だったと考えます。

 昼は大山巌夫人・捨松や従道夫人・清子らが各国の大使らと交流する際の通訳や従道の秘書役、夜は重野による国学・漢学の講義と目まぐるしい時期を過ごした後、1884年(明治17年)5月、外務省の会計局見習いとして採用が決定。「金の動きを見ることは全体を見ることにつながる」という、またしても新たな学びを得る菊次郎でした。

 翌1885年(明治18年)1月、菊次郎は在米公使館勤務となり再びアメリカへ渡り、首都ワシントンにて会計補助と留学生の管理業務に就くこととなります。

 引き続き会計を現場で学びつつ、かつての自分と同じく高い志を持って渡米してきた留学生達の世話、そして産業革命以降一気に工業化していくアメリカの社会や文化、歴史を改めて学ぶことになるのでした。

 菊次郎が赴任してから数ヶ月後、大蔵省から一人の訪問客が訪れます。それは大蔵権少書記官となった大久保彦之進(大久保利和)。大久保利通の息子である彦之進と伸熊(後の牧野伸顕)は同郷であるだけでなく、菊次郎と共にフィラデルフィアで留学生活を送った仲間でもありました。父同士は残念ながら政治的な立場上敵対してしまいましたが、次の世代にその怨嗟が継がれることがなかった事は幸いでした。彦之進は菊次郎に日本の国力を強くするためには財政資金の調達が必須であること、そのためにアメリカに外債や銀行、保険などの金融について研究するために来たことを話しました。職場でも会計に携わっていた事から、菊次郎は金融についての関心を持ち、これが後の京都市政時代へ大きく影響するようになります。

 1890年(明治23年)6月、右足の義足の不調を感じた菊次郎は5年ぶりに帰国し、今度は内外通商についての調査を任されます。元々資源の乏しい日本の貿易政策をいかに行うべきかを研究する業務に携わる中、翌年神経性胃炎を患った菊次郎は鹿児島で療養生活に入ることとなりました。療養中、継母のいとから縁談を勧められた菊次郎は1893年(明治26年)1月に妻・久子と結婚。その年の12月には長男も誕生し、家族のいる幸せを噛みしめるのでした。

 菊次郎が平穏な生活を営んでいたその頃、東シナ海では不穏な状況になりつつありました。1894年(明治27年)、清国が豊島沖で軍隊を輸送しているのを発見した日本軍は、停船命令を無視した輸送船を撃沈。日清戦争のはじまりです。当初、国土の差などから勝利が危ぶまれた戦争ではありましたが、結果的に日本軍が連勝し、翌年4月17日の下関条約にて戦争は終結しました。

 この下関条約で台湾島と澎湖列島が日本の領土となり、5月には統治のために海軍大将樺山資紀を初代台湾総督に任命し、いまだに抵抗を続ける台湾の民兵と清国の正規軍を抑えるために近衛師団を台湾へ向かわせますが、そこで日本軍は驚くべき事実を知ります。

 清国は、台湾や澎湖列島の住民たちに日本へ割譲したことを全く公表していなかったのでした。当然、島民は反発し各地で暴動が発生し、日本軍は統治よりもまず治安回復に努めなければなりません。激しい反発を条約締結前に予測していた西郷従道は鹿児島で療養していた菊次郎に上京を命じ、3ヶ月の間に台湾への赴任が決定しました。

 1895年(明治28年)6月下旬、視察を命じられた菊次郎は未だ治安が悪く、護衛なしでは外出すら危うい状況の中でまず軍事物資の中継拠点である澎湖列島の馬公に上陸しました。割譲前まで清国の兵士の横暴さに悩まされた住民たちが日本軍へ向ける目は険しく、「どうせ日本軍も同じだろう」という敵意を隠そうともしません。その後に訪れた台南県も同じく行政機関設置など不可能な状況であることを確認した菊次郎は一度東京へ戻り、従道へ報告します。かつて台湾で牡丹社征討に一年間携わった従道は自分の予想通りの状況であったことを嘆きつつも、菊次郎の「昔の薩摩藩が奄美群島で行ったような武力による圧政は通用しない。どこまでも台湾の住民たちのための統治を行う必要がある」という主張に希望を持ちました。

 この時に菊次郎は建白書を提出し、こう述べています。

 「台湾治政の肝要点は、まず民心を得ること。そのためには常に住民の立場から治政を考えることが最重要である。決して一方的に日本人の考えを押しつけてはならない」

 父から受け継いだ理念と、多くの経験を重ねてきた菊次郎らしい意見でした。

 建白書を提出した後、鹿児島の自宅と奄美大島の母を訪れた菊次郎は、再び台湾へと向かいます。

 前回よりも更に強い志を持った菊次郎の眼前には、どこまでも青い空と海が広がっていました。


◯参考文献
1)佐野幸夫(2012年)『西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした 生涯』文芸社.
2)“敬天愛人フォーラム21”「西郷隆盛 南洲翁遺訓集」. https://www.keiten-aijin.com/ikun(参照2016-12-25).


machi-iro magazine #49 掲載