その一

1861年(文久元年)2月11日、西郷菊次郎は龍郷にて父隆盛と母愛子(愛加那)の長子として誕生

Tatsugo Guide Saigo 3 Kaoku 0001
「西郷南洲謫居跡」龍郷町観光ガイドブックより(https://machi-iro.com/tatsugo-town/saigonanshu-rutakuato/

 幕府の追求を逃れるため、名前を変えて奄美大島に謫居していた父隆盛の喜びは如何ばかりのものであったことでしょう。当時使用していた変名であり、自らのルーツにちなむ「菊池源吾」(吾が源は菊池と読めます)の名から「菊次郎」、次に生まれた娘に「菊草」と名付けたと言われることからも推し量られます。

 奄美で生まれた菊次郎ですが、その後8歳の時に奄美を離れ鹿児島の西郷家へ。10歳の時に上京、翌年の1872年(明治5年)11歳にしてアメリカへ留学。島育ちの少年は奄美、鹿児島、明治維新の中で大きく変動していく東京、そして日本とは全く異なる文化と独立精神に富んだ新進気鋭の国アメリカ合衆国にて、様々な出会いと学びを得ていきました。

 2年半に及んだ留学生活の後、帰国した菊次郎は公職を辞して鹿児島へ戻った父隆盛の設立した全寮制農学校「吉野開墾社」へ入学します。日中は農作業、夜は学問という厳しい日々でしたが、アメリカとはまた異なる経験に菊次郎は没頭しました。

 1877年(明治10年)、16歳になったばかりの菊次郎に人生の節目が訪れます。2月14日、西南の役開戦。西郷軍は約3万の兵をもって東京へと進発しました。父と共に参戦しつつも一兵卒として前線に立った菊次郎でしたが、2月28日の熊本城での攻防戦にて右足を撃たれ、膝から下を切断することになります。そして野戦病院で手術の後、父の下僕である熊吉と共に熊本から宮崎へ移動し、治療を受けていた菊次郎を8月17日に父隆盛が訪れました。

 「明日、官軍に降れ。官軍も傷病者には治療を施すだろう。今までのおはん達の働き、儂は十分に尽くしてくれたと謝しておる。おはんたちの命を大切にして家族共々親に孝養を尽くせ」

 それでも最期まで父と戦うことを決意した菊次郎と熊吉は翌日、必死で本隊を追いました。しかし松葉杖を使いながら山を上る事は容易ではなく、やがて山中をさ迷った二人は隆盛の言葉通り投降。官軍側である父の弟、西郷従道は片足を失いぼろぼろの軍装をまとった甥菊次郎の姿に絶句し、宮崎の病院への転院治療を促します。

 その後情状酌量にて反逆罪を免除された菊次郎は鹿児島へ戻り、敬愛する父が城山にて自害したことを聞いたのでした。次々と知らされる参戦した親族や友人の訃報。そして数ヶ月の間に大黒柱を失い、立派な屋敷は焼かれ、一転して困窮した生活を送らねばならなくなった西郷家。無常観に苛まれた菊次郎は妹菊草の結婚を見届けた後、母愛加那の住む生まれ故郷奄美大島での療養を決意します。

 1880年(明治13年)2月、菊次郎は母の暮らす龍郷へと向かいます。

西郷南洲謫居跡 見取図

 11年ぶりに再会した母愛加那は、成長した息子の姿に亡き夫の謫居時の面影を見たのではないでしょうか。

 かつて尊敬する君主である島津斉彬公に育てられ、多くの仲間と開国に向け意気揚々と取り組んでいた最中に主君斉彬が急逝し、絶望の余り殉死しようとして失敗し、名を変え奄美に移り住んだ父。

 その父に、当時の日本人としてはこれ以上にないほど多くの見聞を広める機会を与えられ、共に新たな国家のために働こうとした矢先に凄惨な戦場で片足を失い、人生の指針であった父を亡くした息子。

 21年前、傷心の父隆盛を癒やした奄美の自然と人々は、再び菊次郎を優しく見守るのでした。

 不自由な足ながら農学校で培った体力と知識で母の農作業を手伝い、懐かしい幼馴染たちや親族と交流する菊次郎。かつて島民を厳しく支配した薩摩藩が鹿児島県となり、教育制度も徐々に浸透しつつあった若きシマッチュたちは失意の菊次郎とは裏腹に、楽しげに未来への希望を語ります。

 父の築いた私学校にてこれからの鹿児島、そして国家をつくりあげていく事を夢見ていた仲間たちの姿を思い出す菊次郎。

 あの日以来、何度も脳裏をよぎる「命を大切にして家族共々親に孝養(親を養い孝行すること)を尽くせ」という父の遺言。

 生を与えてくれた母への孝養と考えるならば、こうして島で生きていくこととも考えられる。だが自分に溢れんばかりの機会を与えてくれた父隆盛への「孝養」とは何だろうか。既に亡き父への孝養は叶わぬ。しかし父の目指した道は、命ある者のみが進むことが出来る。

 先人の知恵の結晶である学問を尊びつつも進取の精神を培い、広い視野を持ちつつも民の心を忘れず農業を重視した父。

 亡き父への孝養とはその志を継ぎ、父の考えが正しかったことを自らの行いで示していくことに他ならないのではないだろうか。

 心身共に回復していく息子の背中に、母愛加那は再びの別れを予感するのでした。


◯参考文献
1)佐野幸夫(2012年)『西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした 生涯』文芸社.
2)“敬天愛人フォーラム21”「西郷隆盛 南洲翁遺訓集」. https://www.keiten-aijin.com/ikun(参照2016-9-25)


machi-iro magazine #48 掲載