珈琲

泉 和子エッセイ

お茶をどうぞと誘われたら、大抵、始めに珈琲が出される。その後、日本茶か夏なら麦茶などで、おもてなしを受けるというパターンが多い。統計をとったわけではないが、この島では、何故か珈琲の消費が日本茶ほかの飲み物より多いような気がする。

子どもの頃は、珈琲のことを「ネスカフェ」というのだと思っていた。東京から遊びに来た友人が、集落のお年寄りが営む小さな店の店頭にネスカフェが並んでいるのに驚いていた。ネスカフェは復帰後、沖縄から入ってきた。インスタントコーヒーがまだ、日本に輸入されていない時からすでに奄美には入ってきていたという。簡単で便利なネスカフェは、内地(本土)で暮らす親類縁者への小包や土産にもよく利用されていた。




昭和4・50年代、旧名瀬市には、珈琲を出す店が沢山あった。ジャズのレコードが回り、珈琲の香り漂う中に若者たちが居た。私の記憶では、慶文社発行(昭和37年頃)の「名瀬市住宅地図」にも載っているお茶の堀口園2階の喫茶ナイルや山小屋。そのほか、モカ、ガス燈、ウィーン、フラワー、茶々、寿苑、ノンノン、ノア、モニカ、ココス、いにしえ、木燿舎など、過ぎ去りし時代の懐古を刻む。昔と変わらず元気に続いている店もある。創業47年、船をイメージしたカヌー。創業44年、喫茶ポエムは、大判のポスターなどの額装もしていた。自家焙煎珈琲アラジンは、創業33年、豆をハンドピックで選別。麗王洞瑠は、アンティークで独特な世界。女性に人気、創業30年の世ぴ亜などだ。

戦後の経済情勢の変化に応じて、住民生活に於ける消費の実態を把握することを目的とした『琉球統計報告』という資料がある。琉球臨時中央政府行政主席室統計局により1951年7月期は沖縄群島のみ調査され、8月期以降は、奄美、宮古、八重山群島の主要生活用品の小売価格などについても実施された。だが、1952年4月以降は、奄美、宮古、八重山の三群島に於ける調査は廃止された。1951年8月11・12・13日に行われた調査の結果を見ると、名瀬、古仁屋地区の雑の部は「洗濯石鹸 米製PG」が名瀬20.00円、古仁屋30.00円。米国からの輸入品であることが分かり、平均価格も知ることが出来る。食糧の部の食品々目中に「コーヒ 米国製」の文字を見つけるが、何故か平均価格の記入はない。

時代は遡るが、大正3年発行、重信印刷所編著の『鹿児島懸名瀬港』に、重用品輸出入表の項目がある。茶、12000斤輸入という記載はあるが、まだ、そこに「珈琲」の文字は見られない。その後、米軍統治という時代を迎え、奄美の人々の暮らしに浸透していく飲み物になることを誰が予想しただろう。

歌手の西田佐知子は、歌った。

♪「昔アラブの偉いお坊さんが 恋を忘れた哀れな男に しびれるような 香りいっぱいの 琥珀色した 飲み物を教えてあげました・・・」♪

香り立つ1杯の珈琲は、人を元気にしてくれる。

徳之島で珈琲豆が栽培され、宇検村でもその試みが始まっている。

自然も人も元気で、珈琲豆が特産品の奄美群島になればいい。

このエッセイはマチイロマガジン45号より転載しました。

奄美の料理愛好家。調理師。奄美郷土研究会会員。奄美の料理とその背景文化を紹介している。著書『心を伝える奄美の伝統料理』ほか。

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