泉 和子フォトエッセイ マチイロマガジン

あなたは道を歩く時、その道の名の由来や其処に昔は何があったのか、などと考えたことがあるだろうか。今回はシマ(集落)の道について書いてみたい。

シマの道は、人の生活圏においてカミミチ(神道)、クンキリミチ(山を横切る近道)などと呼ぶ道が機能してきた。各集落における道の分布は多い。次の集落へ続く道には、其々その集落名が付いている道もある。例えば、秋名道、芦花部道というふうに。そして、坂になった道は、方言でヒラとか、ビラと呼ぶ。

私の幼い頃は、家の横の細長い道が遊び場だった。隣近所の子や同級生、姉妹たちとままごと、おはじき、テンスゥジンヤ(陣取りゲーム)などをして遊んだ。自転車でやってくる紙芝居は、水飴をなめながら見た。ナンカンジョセ(七草雑炊)を貰いに行った道、父の亡骸が入った棺桶が出て行った道、行事の時も大切な役割をしてくれた道だ。黒飴作りの小父さんの作業場や新聞社、昼も電球の明かりを照らし、鶏の雛を孵化させていた養鶏舎など、それらの敷地に隣接した道の風情があった。時々、夜になると、路地の中ほどに裸電球の明かりが灯った。そこは、旧警察所の裏側にあたり、警察医による検視解剖が行われていた。明かりの灯る夜は、不気味でその道を通ることができなかった。道は一変して恐怖なものへと化した。




シマの道にまつわる伝説や慣習は、不思議なものが多い。母から聞いた名瀬の道の俗信を一つ。ムカシ、現在、建設中の市役所横の道には、ミンキラウヮー(耳のない豚)という妖怪が出没したそうだ。その妖怪が人の股間をくぐると、人は死ぬと言う。だから、くぐらせないように足を交差させながら、人々はその道を通ったそう。なぜ、そうまでして、その道を通らなければならなかったのだろう。回り道をすればすむのに・・・。

古い名瀬の街の通り名で、印象深い名を挙げよう。今の中央通りを海の方から山の方へ歩いて行くと、アーケードが終わる付近の左側に「あざまご帽子店」の看板を残した木造の建物がある。通り名から名付けたと思われる店名だ。店の手前を左手に曲がった路地が、「あざまご通り」と呼ばれていた通りの一部にあたる。道は少しカーブして上がり、現在の内山商事のあたりで永田橋通りに繋がっていたようだ。「あざまご」は、もし、漢字を宛てて意味付けしたとすると、地域の字を流れる川の名が発祥だというから、「あざ(字)ま(間)ご(川)」。境界線の川だったのか。川そのものは河川工事で無くなっていたが、川の名は残った。そしてそれは、昔の伊津部と金久を繋ぐ主要な商店街の一部の僅か百メートル位の通りの名だったと言う。今では、往時の面影は「あざまご帽子店」の役目を終えた看板と書籍にわずかな記述が見られるだけである。

以前は、集落のユイワク(共助)で道普請というのがあった。集落内の道や集落と集落間の道の補修をし、助け合って集落を守ってきたのだ。そんな時にシマ唄が歌われ、シマ料理も作られたに違いない。

そうやって道の形態やシマの様相は変わっても、道はその時その時、人の暮らしに寄りそうようにあったのだ。変わりゆくものがあっても変わらないものもある。それを大切にしていきたい。

*参考文献『名瀬大正外史』1984池野幸吉

このエッセイは平成29年2月発行のマチイロマガジン44号より転載しました。

奄美の料理愛好家。調理師。奄美郷土研究会会員。奄美の料理とその背景文化を紹介している。著書『心を伝える奄美の伝統料理』ほか。

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