「奄美シマッチュ伝」17

菊次郎
志を受け継いだもう一つの「西郷伝」

〜 その十二 〜

大正9年(1920年)1月、台湾と日本の絆を結び、京都を古き都から華やかな近代工業都市として再生し、鹿児島にて亡き父と同じく教育を重視して多くの児童に勉学・技術習得の機会を与えた菊次郎でしたが、60歳を目前に永野金山を去る事を決意します。

鉱業館長として約8年の在任期間中、夜学校や武道場だけでなく、日用雑貨や米・麦の販売所を設け、また金山以外の学校や役場、橋梁の改築に多額の寄付も行い、地域の向上にも尽力しました。

菊次郎が退職した直後に建てられた「西郷菊次郎頌徳(しょうとく)之碑」にはこのように刻まれています。

…勤務にはげむかたわら、永野村政の発展にもつくされ、特に教育施設のない永野に、三年制の夜学校を開設されました。(中略)これは先生が、青少年教育の重要性を強く感ぜられてのことで、ここに永野の青少年は心身共に強く育てられ、のちに多数のすぐれた人物を生み出す原動力となりました

また支庁長を務めた宜蘭の西郷堤防沿いにも同じく「西郷庁憲徳政碑」が設置され、故事を引用しつつ菊次郎をこう讃えています。

…いかなる場合でも誠を尽くし、民衆の心をつかみ、私利私欲のないことを示せば自然に民衆の心は安定するものである、前任の西郷菊次郎氏は仁徳によって民衆を教化させた。氏の公徳は風のごとく民心をなびかせ、苗を育む慈雨のようであった(意訳)




生涯を通して菊次郎が一貫して行ったことは、とにもかくにも「世のため・地域のため・人のため」でした。

亡くなった父・隆盛の掲げた理想を常に現実的に実践していったかのような生き様。その時その時の仕事に命がけで打ち込み、それぞれの地域に住まう人々の人生を明るく照らしました。

宜蘭支庁長・京都市長・鉱業館長と立場は異なったものの、菊次郎が常に人々に新しい道へ進む機会づくりを粘り強く行ったことは、シマッチュの心に訴えるものがあります。

奄美生まれだからこそ、母・愛加那を貶められぬよう人一倍勉学に励みました。

「国賊」とそしられた父を持つからこそ、国益のために外交官として精進しました。

異国の地だからこそ、宜蘭の各地を隅々まで自分で見て回り、地元民の話に耳を傾けました。

よそ者だからこそ、京都の街を大胆に近代化することが出来ました。

そして、父・隆盛に島を出て数々の教育を受ける機会を与えられたからこそ、金山周辺の子供達に必要なのは教育と広い世間を見る機会であると確信し、夜学校や東京での奨学生制度を設けました。

龍郷の小さな家で親子で肩を寄せ合いながら育った少年は偉大な父の名に隠れがちながら、淡々と、しかし堅固な近代日本に無くてはならない多くの礎を築いていったのです。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。”
(命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない)
-南洲翁遺訓 第30条より抜粋-

昭和3年(1928年)11月27日、正午12時10分。

西郷菊次郎、逝去。享年68歳。

偉大な父の志を立派に実践したシマッチュは、愛する家族に看取られながら静かな眠りについたのでした。

 

終-

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
「西郷菊次郎と永野金山」西郷菊次郎鉱業館長就任百周年記念誌(永野西郷菊次郎顕彰会)

参考HP

敬天愛人フォーラム21

近況

12回にわたりお伝えした西郷菊次郎のお話、いかがでしたでしょうか。いよいよ大河ドラマ「西郷どん」が来月から開始となりますが、このシマッチュ伝がドラマを楽しむ一助となりますよう願っております。

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

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