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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」16

~父の遺志を実践した西郷菊次郎⑪~

 

大正2年(1913年)、菊次郎が館長に着任してから1年。金山からの運搬効率を上げるために九郎太郎川、平八重川の木橋を鉄橋に架け替えるなど鉱山周辺の環境整備を行いながら、菊次郎は永野鉱山周辺の人材教育について模索し始めます。いかにして金山採掘だけに頼らず、変化していく時代に適応し得る人づくりを行うか。鉱山の管理業務を行いつつも菊次郎の脳裏からその課題が消えることはありません。横川駅より鉱山へ向かう道中の馬車にて、行き交う子供達に手を振りつつ思索にふけるのでした。

現在のJR大隅横川駅(旧横川駅)駅舎は明治36年開業時のまま現存されており国の登録有形文化財(参考:公益社団法人 霧島市観光協会)

 

翌大正3年(1914年)、菊次郎は私費を投じて武道場を建設。京都や鹿児島から3名の剣道教師を招致し、小学校に通う子供から近隣の農村など金山周辺に住む者であれば、鉱山に従事していなくても道場で鍛錬が出来るということで、武道場にはたちまち練習生が集まりました。青年部はめきめきと上達して県内で名を挙げます。ここでは他にも銃剣術、射撃、弓道も練習することが出来ました。
さらに菊次郎は選鉱場の横にまたもや私費で木造平屋の建物を造り、教育施設のなかった永野地区に山ヶ野鉱業館夜学会(三年制)を創設。
この夜学会は日曜日を除く毎日午後6時から9時までの3時間×3年制で、授業科目は国語、数学、英語、物理、化学、鉱工学基礎(採鉱・冶金・電気)など当時の地方教育としてはかなりレベルの高い内容でした。
教師はというと鉱業館の職員が担当することになりましたがこちらは当時のエリート揃い。
英語と国語、電気と物理化学は東京帝国大卒、その他の科目も工業高等学校卒業など、菊次郎の人材育成にかける信念に賛同した者ばかり。
教わる方としても、教育を受けてより良い職に就いているというお手本が教室で目の前にいるわけですので「自分自身のために学ぶ」という目標がブレにくくなります。
また成績優秀者は、給費生(奨学生)として修了後に東京の工手学校に入学できるという制度も設け、のちに衆議院議員となった池田清志氏らを輩出しています。
近隣の小学校行事などにも積極的に顔を出して児童らにも声をかけ続けました。




さらに菊次郎は宿舎の近くにテニスコートを設けて地域住民に広め、職員の福利厚生として住民の交流の場のための職員クラブを設けます。ここには囲碁や将棋、図書といった従来の設備だけでなく、ビリヤード台も設置。このように新たな娯楽の場を提供することで、都市部から赴任してきている職員を酒や遊郭に耽溺するリスクから守る意味合いもあったのではないでしょうか。

文武を通じて自主性を培い、共同調和を尊び、地域の若者たちの健全な育成に努める。
郷中教育の伝統を手本にしつつも、欧米文化に対する知識や理解など進取の精神を取り入れることも忘れない。
その様は父・西郷隆盛がかつて幼い菊次郎に与えた教育と同じであり、下野した後に再度志を掲げて私学校創設を通じ目指した、新たな時代を生きぬくことの出来る人づくり。
すなわち「天(国家)を敬い人(民)を愛する」敬天愛人の実践そのものでありました。
(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
「西郷菊次郎と永野金山」西郷菊次郎鉱業館長就任百周年記念誌(永野西郷菊次郎顕彰会)

近況

姪の誕生日プレゼントを買うのに付き合うと毎回予算オーバー。来月はクリスマス、正月、別の姪の誕生日…と体感だけでなくサイフの中身もお寒い季節到来です。その辺に金鉱ないものでしょうか…。

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南 琴乃

南 琴乃

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

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