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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」15

~父の遺志を実践した西郷菊次郎⑩~

 

永野金山跡地(参考:公益社団法人霧島市観光協会)

明治44年(1911年)6月、京都市長を辞した菊次郎は10人の子供達を連れて故郷鹿児島へと戻ります。
ひとまず薬師町に家を購入し、菊次郎は体調回復に専念することにしました。
慌ただしく調整に追われた京都での生活から一転、鹿児島で子供達と共に過ごす穏やかな日々を送る菊次郎に農商務大臣を務める旧友、牧野伸顕から便りが届きます。
「菊次郎を島津家が管理する永野金山の所長に推薦した」という内容でした。
これを受けて明治45年(1912年)7月、菊次郎は東京の島津家総務所を訪れ家令の野元驍(たけし)と面会、菊次郎を正式に永野金山島津鉱業館長として迎えたいという要望を聞きます。
今まで外務省、台湾総督府、京都市と行政での経験はあるものの、民間企業での役職というものは51歳にして初めてのことです。菊次郎が正直に「自分は素人なので経営が務まるか分からない」と伝えたところ、野元は「実務は職員がやります。大所高所から見ることの出来る、安心して事業所を任せることが出来る人間を館長に欲しいのです」と答えました。
そのような役目であればこれまでの経験からお役に立てるかもしれぬ、と考えた菊次郎はこの話を承諾することにしました。




明治45年(1912年)7月7日に任命書を受理した菊次郎は、まず精錬所長に案内してもらいながら、金山とその周辺を視察します。金山で働く職員や鉱夫やその家族、そういった家族たちの生活を支える露店などで賑わっていましたが、菊次郎には気になる点がありました。
明治38年(1905年)生まれの黒田清武氏は、菊次郎が館長に就任した頃の永野金山をこう回想しています。

私が小学校に上がる頃は、近隣町村は農家ばかりで現金収入なども余りない農村でした。それに比べて永野金山の多くは島津家の直営鉱山に勤める人、また自稼請負の家で、どこの家庭も裕福でありました。鉱山の幹部職員は主に鹿児島市や県外の人が多く、その人達は搗鉱所付近一帯の社宅に住んで居り、幹部職員の人達は地元住民よりさらに一段上の文化生活を営んで居たようです。社宅の子供達の服装は洋服にゴム靴で、女生徒はえび茶の袴を着て手提げ鞄、男生徒は肩掛け鞄で、中には自転車で登校する生徒も見受けられました。
その頃の私達は素足にわら草履で、よれよれの絣の着物で袴もなく、教科書は風呂敷包み。子供心にも驚きと羨望の気持ちでした。

これを日常と感じている人には何とも思わない光景です。しかし菊次郎はそうではありません。
幼少期に見た奄美の貧しい農民と島役人の貧富の差。台湾統治初期に前時代的な手法で細々と農業を営んでいた住民や教育機会に恵まれない子供たち。
士農工商の時代は終わり、これほど金山周辺は栄えているというのに、元々の農民と後から来た金山勤務者の生活の格差がどんどん広がっている。格差が大きくなると憎悪が生じ「自分たちが貧しいのは、あいつらが来たせいだ」と容易に陰惨な事件が発生することも、菊次郎は台湾での経験から知っています。

更に金山の採掘量を確認すると、近年大金を投じて近代化されたにも関わらず、少しずつ陰りを見せ始めている事も確認しました。
当時既に270年以上採掘しているので当然とも思われますが、好況の只中にある時にそれを見極める事が出来る人は本当に少ないものです。まして当時の永野金山は佐渡ヶ島の金山よりも採掘量が多く、「日本一の金山」と呼ばれていました。
菊次郎は、アメリカ・サンフランシスコでのゴールドラッシュによる影響を思い出しました。
世界中から一攫千金を狙う者が金脈を目指して集まり、一気に掘り尽くしたこと。
金脈の奪い合いなどによる治安の悪化、そして採掘量が減少した際に「後から来たよそもの」である中国系移民の排斥運動が生じ、どんどんゴーストタウンと化していった周辺の街並みなど。
サンフランシスコは金の輸送のために発展した交通・流通インフラを利用しその後も港町として栄えましたが、永野金山は山深い地域にあります。
金山での仕事がないとすれば他の貧しい農村の子供達のように、遠く離れた工場などへ出稼ぎに行くしかない。もっと悪い場合は、女子を遊郭へ売る場合もある。そうなるとこの山間地域は人通りが絶え疲弊した地域になっていく。

果たして、この地域に対して自分は何が出来るのか。

民間企業の雇われ館長という立場でありながら、またしても知らず知らずのうちに「公益」を求めゆく菊次郎でした。

(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
「西郷菊次郎と永野金山」西郷菊次郎鉱業館長就任百周年記念誌(永野西郷菊次郎顕彰会)

近況

本州ではかなり冬模様のお天気らしいのですが、台風接近しつつある奄美では未だに夜でも湿度90パーセントくらい。相変わらず寝苦しくて困ります。

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南 琴乃

南 琴乃

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

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