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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」13【番外編】

重野安繹の残したもの

 

文久3年(1863年)、36歳の重野安繹は約6年ぶりに故郷・薩摩の地を踏みました。
二ノ丸御付(藩主の父、久光の御付)の御庭方となった重野は、長州藩での下関砲撃視察のために高杉晋作・林友幸らに面会して実際の交戦状況を伺い、イギリスへの対応を考えます。
同年8月6日、イギリス公使代理のジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉に7隻の艦隊で横浜港を出向。8月11日、鹿児島湾に到着して城下の南約7kmの谷山郷沖に停泊。
翌12日、更に前進して鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨。艦隊を訪れた薩摩側の使者に対してイギリス側は国書を提出し、生麦事件の犯人の逮捕と処罰、および遺族への妻子養育料を要求。薩摩側は藩主の不在を口実に回答を保留します。
14日、艦隊を桜島沖に移動させたニールは要求が受け入れられない場合は武力行使に出ると通告。
これにより薩摩側は当主である島津茂久と後見役の父・久光を艦隊の艦砲射程圏外である西田村(現在の鹿児島市常盤)の千眼寺に移動させ、開戦への準備を整えました。
同年8月15日の夜明け前、イギリス艦隊は薩摩の蒸気船3隻を奪取。これをイギリスによる盗賊行為と受け取った薩摩側は湾内7箇所の砲台に追討令が出され、砲撃開始。薩英戦争が始まります。

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘 (Wikipediaより)

砲台を確認していなかったイギリス艦隊は初めの旗色こそ良くなかったものの、やがて陣形を整えて反撃を開始。薩摩側も城下町において1/10が消失するほどの甚大な物的被害をこうむりながら、負けじと応戦します。
8月17日、弾薬や石炭燃料を消耗し、1隻が大破・2隻が中破し、63名の死傷者を出したイギリス艦隊は撤退を開始して24日に横浜港に帰着しました。




11月11日、横浜の英国公使館内応接室にて、第一回和睦交渉の談判開始。
撤退したとは言え一応戦闘に勝利した格好のニールは、今まで外交経験のない、しかも少し前まで遠島処分されていたという重野を相手に交渉することは、さほど難しくはないと考えていたかもしれません。
ところが談判が始まるやいなや、重野はいきなりイギリス艦隊を批判し始めました。
「わが方の船三隻を略奪したのはそちらが先。こちらは盗賊行為に対して砲撃したまで。当然の行為であり何ら責められる言われはない。むしろこちらの船を略奪したのは一体どういう意味があってのことか!」と先手を繰り出します。
驚いたニールも「生麦村でわが国民を殺傷したのは薩摩側。我々はその賠償を求めただけであり、当然のこと」と反論しましたが、その程度で怯む重野ではありません。
「とがめられる筋ではない。諸侯の行列を横切ると処罰されるのは日本の習い。事前に知らせも出してある。にも関わらず、諸侯の行列を横切ったのはそちらの落ち度。イギリス人だから切ったのではなく、相手が違法行為を行ったから切ったまで。貴国に交通法はないのか」と、更にイギリス側の落ち度を追及します。
全く折り合うきざしのない両者に対し、幕府側の仲裁が入って次回談判を取り決めますが、3日後の第2回でも同様に紛糾し、両者に歩み寄る気配は全くありません。
11月15日の第3回の談判でも重野は「イギリス側が譲らなければ、もう一回戦争するしかない」とまで言い出す始末。再戦となると今度は薩摩ではなく、横浜港が同様の被害に遭いかねません。困り果てた幕府側は和睦派を使って重野に態度を改めるよう促します。
ここで重野は知恵を働かせました。

「それほどまで仰るのであればこちらが折れましょう。しかしただ賠償金を支払うのでは、こちらも被害を受けた民たちへの面目が立ちませんし、余計に外国人排斥の動きが高まるやもしれません」
「イギリスから軍艦を買うという体裁にして、その代金としてというなら払いましょう」
「ただし、わが藩にもすぐに支払えるほどの余力がありませんので幕府からお貸しください」

図々しいにも程がありますが一刻も早く事を収めたい幕府はこの提案を受け入れ、イギリス側もこの購入斡旋を承諾し、やっと和睦成立となりました。
結果的には負けた立場のはずが、幕府から借りた金で当時最強と言われたイギリス海軍の戦艦を手に入れるという大勝利。
この重野の交渉からイギリスは江戸幕府ではなく薩摩藩を高く評価するようになり、薩摩側もそれまで強まりつつあった「外国人は排斥しろ!」という攘夷論ではなく、強力な軍事力を持つ欧米文明を取り入れ、より強い国にしなければ、と明治維新への歩みを見せ始めます。
ちなみにこの和睦の際に幕府が肩代わりした軍艦の購入代金6万300両は、その後返還されないまま明治維新を迎える訳ですが、徳川家と島津家の間の貸借と考えると現在まで利子をつけて幾らになる事やら…。

この外交の功績で明治維新後に外務省にと請われた重野でしたが、維新後は漢学・歴史学者の道を進みます。それまで「事実かどうかはっきりしないが道徳的美談だから」と、それまで国史の一部分として教えられてきた楠木正成の逸話などを「道徳的な話だが事実でなければそれは歴史とはいえない」とバッサリ否定して尊皇派史観と対立するなど徹底した現実主義・実証主義を貫きながら、奄美にいた時と変わらず私塾を開いて数々の後進に教育を施し、更に明治8年(1875年)に政府の修史局にて修史事業に関わり、明治21年(1888年)に帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任しました。

この重野の人材教育の成果は、そこから二つの歴史へつながっていきます。
一つ目は西郷菊次郎や大久保利通など、わが国の政治史です。重野の「時代に適した現実主義に基いて国益・公益を重んじる」という姿勢は、菊次郎の台湾・宜蘭庁長時代の采配や京都市長時代の業績、大久保利通の次男である牧野伸顕による対ヨーロッパ外交や人種差別撤廃をどこの国よりもいち早く国際連盟に提案する動きへとつながり、更に牧野の娘婿で戦後処理を行った総理大臣、吉田茂、愛弟子であった岸信介・佐藤栄作の日米安全保障へと続き、その孫世代の麻生副総理や安倍総理まで、現在のわが国の外交・防衛史を形成しています。

もう一つは、奄美の人材育成の歴史です。
重野は瀬戸内と名瀬でそれぞれ私塾を開いていましたが、前回の画像で記載した通り、名瀬塾では後に「黒糖自由解放運動」を率いることになる少年・丸田南里と、彼に対立した戸長の大江直佐登がいました。

丸田南里は少年時代に重野から学んだ知識や判断力をさらに国外見聞を通じて磨き、黒糖自由化の正当性を訴え、島民の支持を得て島内での自由解放運動は高まっていきます。
ところが彼が加わらなかった鹿児島への陳情団の大部分は、「勝ったらシマのための発言力を強化出来る」とほのめかされ、勃発したばかりの西南戦争の最前線に参戦させられて非業の死を遂げました。命からがら戦地から鹿児島へ戻った者は谷山監獄に拘留されていた仲間と共に奄美への帰路についたものの、船が遭難。そこで命を落とした者も多く、鹿児島へ向かった58名中、生きて奄美へ戻れたのはわずか10名あまり。
不自由な「ヤマトグチ」での陳情、全く異論を挟ませない矢継ぎ早の鹿児島弁の「お叱り」と谷山での投獄、西南戦争の戦場での差別。
陳情に赴いたのは殆どが奄美の旧家に連なる者ばかりで、決して無知無学だった訳ではありません。それでも自分たちの主張を全くと言っていいほど述べることも出来ず、ただただ言いくるめて利用され、一体自分たちがどこに移動させられているのかも全く知らぬままに、田原坂で命を落としていった仲間たちの最期。そこから得た教訓は「世の中、学問ど」でした。

「こんな屈辱をずっと子供らに経験させるわけにはいかん。何をおいても子供にはまず学問を」「知識を、自分で考える力を、他者に堂々と意見を述べて議論出来る能力を」と急速に人材育成への気運が高まっていき、奄美における教育の質はどんどん向上していきました。

この成果はすぐに現れ、維新後20年経過するかしないかのうちに奄美から後の帝国大学へ進学する若者が続々と増えていき、省庁勤めの官僚や学者、経営者たちが誕生しました。
元島役人の子弟たちも負けじとばかりに学業に励みます。丸田南里と対立した大江直佐登の長男、仙蔵は重野に学んだ父から初期教育を受け、13歳で鹿児島の造士館へ進み秀才ぶりを発揮。東京工科大学(現在の東京大学工学部)へ進学し、ペンシルバニア鉄道会社に留学後、日本人初の鉄道技師へ。彼が帰省した際に依頼を受けて測量を行った、名瀬の伊津部町から小浜を通り山羊島、そして鳩浜から大熊~浦上における幹線道路は現在も大部分が使用されています。
父が横目役を務めた明治9年(1876年)、龍郷生まれの泉二新熊は幼少期より私塾に通って漢学を学び、やがて帝国大学法学部へ入学。卒業後は検事・検事総長・大審院長と登りつめ、退官後は枢密院顧問官に就任。類まれな出世コースを邁進しながらも奄美への郷土愛を忘れることなく、奄美出身者のための東京奄美会設立、そして奄美奨学金設立など島の後輩への尽力を惜しみませんでした。

このように高度教育を受けるために本州へ赴きながらも、郷里の奄美を忘れることがなかった出身者たちによる島外からの支援活動や政府への嘆願があったからこそ、非暴力主義を貫いた日本復帰運動が可能となったのです。決して島内にいたシマッチュだけの運動ではありませんでした。

来年は明治維新から150年、奄美群島が日本に復帰して65年。
2つの史実は重野安繹という一人の学問好きな武士が残した「教育」の足跡でつながっています。
歴史に「もしも」は禁句ですが、重野が他の遠島処分された藩士のように酒に溺れ、島の若者の教育など全く行わず、龍郷にて謫居中の西郷を自己憐憫の道へ引きずり込んでいたら?
西郷が後進教育を重視し始めたのは龍郷謫居の時期からです。もしも重野が西郷を足繁く訪問した際に、酒を飲んで愚痴をこぼし、我が身の不幸を嘆いていただけなら?
おそらく奄美だけでなく日本も、そして世界の歴史も、良くない意味で違っていたのではないかとさえ思われるのです。

(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
「碑のある風景 足でまとめた奄美大島史」(籾芳晴:南海日日新聞社)
「苦い砂糖 丸田南里と奄美自由解放運動」(原井一郎:高城書房)
「奄美発の西郷どん 敬天愛人の母体 奄美」(奄美西郷塾)

近況

今月はじめの台風5号で久々に長時間の停電を経験して、改めて電気の便利さを思い知る。まだ雨風強い中、復旧作業にいそしんでくれた方々へ感謝しかありませんでした。

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南 琴乃

南 琴乃

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

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