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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」12【番外編】

重野安繹の残したもの

 

いよいよ夏休み。今月・来月は昨年から続けている「西郷菊次郎」の話をいちど中断し、西郷隆盛と奄美で交流を深め、一時期は息子の西郷菊次郎の先生でもあり、近代・現代日本の、国際政治の土台を形作ったと言っても過言ではない、重野安繹(しげのやすつぐ)にまつわるお話をお伝えしようと思います。



重野安繹は文政10年(1827年)に薩摩藩、現在の鹿児島県の坂元村で生まれました。天保10年(1839年)に薩摩藩の藩校である造士館へ入学。優秀だったため藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)公に認められ、嘉永元年(1848年)に江戸幕府の昌平坂学問所に通います。西郷隆盛とはこの頃に江戸で知り合いました。
この昌平坂学問所では、「まず知識を多く得ること」とする朱子学を専門に教えていましたが、総長である佐藤一斎(さとういっさい)は、もともとこの朱子学に批判的な陽明学を学んでいました。
陽明学の教えに、今は四文字熟語として知られる「知行合一」があります。
これは「知ることと行うことは同じであり、知っているのに行わないのは、まだ知らないことと同じであり、せっかく知識があっても行動がしなければ意味がない。大事なのは実際にやってみることである」という意味です。
ただし、この「とにかくやってみる」は極端な行動、たとえば幕府を倒そうという革命を起こしかねないとして、江戸幕府は学問所でこの陽明学を教えることを禁止していました。
しかし佐藤一斎は朱子学の内容を生徒たちに教えた上で陽明学の内容と比べ、生徒たちと議論するという事もありました。
この佐藤一斎の教えは「言志四録」(げんししろく)という本になり、のちに西郷隆盛が亡くなるまで読み続けた一冊となります。

重野は安政3年(1857年)に薩摩に帰るのですが、同年代の友人の使い込みが問題になり、重野も関わっているのではないかと疑われてしまいます。この件に関しては複数の説があるのですが、重野は藩の遠島処分を受け入れ、安政4年(1858年)、現在の瀬戸内町の阿木名集落に住み始めます。
現在のように「懲役◯年」と最初にお達しがあるわけではないので、一体奄美で何年暮らすことになるかわかりません。同じように奄美に流された薩摩の侍たちの中には一生帰られないかもしれないと、ただただあきらめる者もいましたが重野は違いました。
阿木名の浜辺で私塾をつくり、そこで島の子供や若者に、自分が今まで習ってきた学問を教え始めます。

この私塾跡地は現在は更地となっていますが、ここから多くの学者や知識層が育ち、群島全体への教育へつながり、更にはのちの復帰運動に尽力することとなる多くの人材育成のスタート地点である事を考えると、もっとシマッチュに伝えていくべき地点ではないでしょうか。

重野にとって、奄美に来るきっかけは不運であったかもしれませんが、奄美の若いシマッチュにとっては天が与えた幸運でした。
阿木名以外にも、薩摩藩の情報を仕入れるために名瀬の藩役人の家まで歩いて通い、また私塾をつくって名瀬の若者たちにも学問を教え始めました。ここでの教え子に、のちに黒糖自由販売運動のリーダーとなる丸田南里と、彼に敵対する事になる大江直佐登がいます。
重野が奄美に来て2年後の安政6年(1859年)、西郷隆盛が龍郷に住み始めます。その事を知った重野は早速、阿木名から80kmの山道を3日がかりで歩き通して西郷を訪問しました。
最初の頃こそ尊敬する主の斉彬を失い、今までの華々しい江戸での生活と異なる慣れない島ぐらしで落ち込んでいた西郷でしたが、やがて重野と同じように龍郷の若者に学問を教えるようになり、教育に対する熱意はその後徳之島や沖永良部島、薩摩での私学校開設へと一生続いていきます。

このまま続くと思われた重野の遠島生活でしたが、時代は激しく変わろうとしていました。
文久2年(1862年)、生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)を通行中だった島津久光の行列に馬に乗ったまま割り込んだイギリス人の一団を、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)してしまう「生麦事件」が発生します。



怒り心頭のイギリスに対して「あちらが悪い」と賠償金もすべて幕府に肩代わりさせたほど強気の薩摩藩ではありましたが、交渉の場には議論に長けた者が必要と判断し重野を奄美から戻すことになります。
阿木名には重野の妻のウミと娘のヤスがいましたが当時はまだ奄美の女性を島の外に連れて行くことが出来ません。妻子と泣く泣く別れた重野でしたが、この後、重野には藩の方針を大転換させ、明治維新へと舵を切らせる事になる一世一代の大役が待っていたのでした。

(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)
「碑のある風景 足でまとめた奄美大島史」(籾芳晴:南海日日新聞社)
「苦い砂糖 丸田南里と奄美自由解放運動」(原井一郎:高城書房)
「奄美発の西郷どん 敬天愛人の母体 奄美」(奄美西郷塾)

近況

龍郷や沖永良部など直接西郷隆盛が滞在した地域だけでなく、今回取り上げた重野安繹の私塾跡のように明治維新とその後の近代化へつながる史跡スポットは瀬戸内町や奄美市内にも多々あります。夏休みの自由研究にぜひ。

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新 志磨子

新 志磨子(あらた しまこ) 日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。
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