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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」11

~父の遺志を実践した西郷菊次郎⑧~

明治32、33年頃の京都市役所(左側)と京都市議事堂(右側)

京都市消防局HPより)

明治37年(1904年)10月、前市長であった内貴甚三郎の推薦を受けた菊次郎は、対抗馬を退けて第二代京都市長に就任しました。
治安の悪かった台湾赴任と異なり、今回は国内でしたので鹿児島の妻や子供達も連れての大所帯です。官舎代わりとなった聖護院は広かったため東京にいた妹・菊子とその次男次女も呼び寄せられました。
西南戦争の前年に鹿児島へ引き取られ、その後の3年間を除いて共に暮らしたことのなかった菊次郎と菊子ですが、それぞれの子供達を連れて久々の同居生活となりました。



明けて明治38年(1905年)、前市長内貴から引き継いだ「第二疎水」「上下水道整備」「道路拡張と電気軌道敷設」、後に「三大事業」と呼ばれる大規模整備事業を実施するために菊次郎は工事費の試算及び現地視察等を開始。
水道、特に上水道の整備に関しては市民からは期待を持たれていました。
水道は市民により全体的に使用されるものであったこと、また1890年(明治23年)に遭難したトルコの軍艦エルトゥールル号において、遭難前に乗組員らのコレラ感染が確認され、日本でも感染予防のために飲料用水の検査が各地で実施された7,000件余りのうち、60%以上が検査に不合格となり、上水道の必要性が叫ばれるようになったからです。
本来、疎水事業には水力発電の目的がありましたが、更に上水道整備という目的が追加されるようになりました。
ただし菊次郎が市長となった時も未だに第一疎水工事の際の債務が残っており、第二疎水は夢のまた夢と思われていました。だからこそ前市長内貴は、台湾開拓において類まれな実行力を持ち、政府の薩摩閥にも近しい菊次郎に白羽の矢を立てたという意味もありました。

しかし、今も「お友達」「親しい」からと言って国の中枢の権力者に近い者が正当性も手続もなしに勝手に国の予算を分けて貰えないように、この時の菊次郎も「大山巌元帥の親類」だからと言ってポンと国家予算を分けてもらった訳ではありません。
事業実施までは京都市議会や市民の説得、予算確保のための手法固めなど、多くの過程が必要となりました。

明治37年(1904年)に始まった日露戦争は、年末に日本軍が旅順港を陥落したとは言え、兵力13万のうち、5万9千人を失うという甚大な被害を出し、翌年3月と5月の海戦にて勝利となり、日本は9月のポーツマスにおいてロシアと講和条約を結んだばかりでした。
同月下旬、内貴に菊次郎を紹介したかつての外務省勤務時代の上司であり枢密院顧問官となった九鬼隆一を訪問した菊次郎は、三大事業に対する政府の援助を求めます。しかし日露戦争で賠償金を全く得られず、また日清・日露の両戦争のために重税をかけていた政府としては、現状、地方都市の整備に国費を割く余裕は無い、という回答しか得られませんでした。

ここで「予算がない」と嘆いて公共事業が出来ないのはよくある話ですが、菊次郎には第二案がありました。
それは「外貨地方債(外債)発行による事業予算づくり」です。現地視察を行った菊次郎は、年々中心部だけでも一万人単位で増加していく京都市民の人口を鑑みると、更なる事業の先送りは出来ないと考えていました。

当時すでに明治32年(1899年)の神戸市を皮切りに、次に横浜市と大阪市が明治35年(1902年)に都市整備事業のための外債を発行していたので前例があったのです。
とは言え神戸市・横浜市・大阪市はそれぞれが港を有する地域。臨海部の開発を行うことで輸入・輸出産業の成長は確実な地域だったので海外資本による地方債購入が見込めたという状況であり、海に接していない京都市とは立地が異なるという点もありました。
しかし菊次郎には、外務省時代のアメリカ駐在時代の見聞があります。内陸部の都市も興業発展に伴い近代的な都市整備が行われていたことなどから、京都市の工業都市としての発展は必ず国益に叶うという確信に近いものがあり、そのためには何としても整備予算の確保を行うという覚悟がありました。
その熱意に感銘を受けた九鬼は、外債発行に対する政府の承認を受けるため、大蔵省との折衝に力を貸すこととなります。

翌明治39年(1906年)11月、ようやく京都市議会にて、第二疎水事業・上水道事業案が可決されます。
第二疎水は四ヵ年計画(378万円)、上水道事業も四ヵ年計画(300万円)の予定となりました。明治31年~40年までの京都市の平均年間予算が220万円ほどであった事を考えると、政府に頼らずに外債で独自予算を調達することについて、どれだけ京都での根気強い説得が必要であったのかは想像に難くありません。それでも菊次郎の心にはこの事業完遂後の未来が既に描かれており、まだ道路拡築議案が可決されていなかった12月議会で、このような言葉が残されています。

「この京都を工業都市として発展させるには、道路の拡築が喫緊の課題である。さらに、道路拡築は交通機関を発達させるだけでなく、教育や衛生面への波及効果も期待できる。100年後の京都市を考えるなら、ぜひとも本案(道路拡築並電気軌道建設事業案)を市議会で可決してもらいたい。本案は建設後の電気鉄道営業収入を見込み、それを財源に先取りし、計画しているが、この先、建設費返済だけでなく本市の貴重な収入源となるであろう」

京都市のより良い未来のために、菊次郎は更に根気強く事業を推し進めていく覚悟を固めるのでした。
(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)

参考論文

外貨地方債の政府保証とメリット・デメリットに関する研究」(大森 光則・伊多波 良雄:同志社大学政策科学研究, 2009)

参考HP

京都経済同友会 京都・近代化の軌跡 第21回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その1)

近況

そろそろ来年度の大河ドラマ関連の話題が増えてきました。この機会に島内でもっと島の歴史や先人達に興味を持つ方が増えるといいなーと思いつつも、「いや、この連載で増やせるようもっと頑張れよ!」と自分に活を入れています。

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新 志磨子

新 志磨子(あらた しまこ) 日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。
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