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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」8

~父の遺志を実践した西郷菊次郎⑤~

当時の宜蘭庁舎(出典:宜蘭設治記念館

明治31年(1898年)、第4代台湾総督の児玉源太郎とその片腕である民生局長である後藤新平は台湾全土の現況調査を実施し、台湾総督府にて収賄・横領を行っていた公務員1,080名の大規模なリストラを行いました。
台湾の人々に対し「我々日本人は率先して道徳的であるように務める」という姿勢をみせたのです。

そして各地で抗日活動を展開してきた土匪に対して、投降を呼びかけることにしました。「投降した者のこれまでの罪は不問に処す」「投降するにあたり必要な準備資金を補助する」「投降した者は公共事業や各種産業にて雇用し、生活を保障する」という総督府側の提案は土匪に大きなメリットがあり、これまでの経緯を水に流して一からやり直せる大きなチャンスではありましたが、投降に従わねば銃殺もやむなしという厳しい側面もありました。




この時に他のどの地域よりも真っ先に動いたのが菊次郎です。菊次郎が赴任した宜蘭には土匪の大勢力である林火旺や陳秋菊らがいました。彼らは百名から多い時は数百名で抗日活動を行い、陳秋菊の一派は6名の日本人教師を惨殺した芝山巌事件の首謀者でもありました。これまでの蛮行を知っていれば当然近寄りたくもないはずですが菊次郎は土匪に通じる者を調査し、6月中旬に自ら通訳と共に首謀者である陳秋菊や徐禄・鄭元流らに会い今後の総督府の方針を伝えます。「今後は住民に戸口制度を設け、お互いの監視体制を強化する」「この機会を逃せば二度と陽に当たる機会はない。部下の将来を案ずるのであれば投降を」と呼びかけました。

少しでも早く説得することができれば、無用な殺生をする必要はない。自らが参戦した西南の役のような地獄絵図を招いてはいけない。鹿児島で見た敗残者のような悲惨な暮らしを再現させてはならない。そういった思いが脳裏をよぎったのではないでしょうか。

また数年の抗日活動を経て台湾の住民の中にも「土匪に協力しても一向に生活は良くならない」という意識が芽生えつつあり、世論が徐々に総督府側に回りつつあると感じた総首領の林火旺はこの菊次郎の呼びかけに応じ7月12日、嘆願書を提出。後日七百名余りが投降する帰順式が行われました。以降、各地の土匪も次々に投降し、台湾統治開始から3年を経てようやく治安回復の兆しが見え始めます。

翌年の明治32年(1899年)の夏、豪雨が宜蘭地方を襲いました。故郷の奄美大島同様、台湾も台風が訪れることの多い地域です。朝から続く雨の強さを危惧していた菊次郎に宜蘭川の堤防が決壊したという知らせが届きました。夕方頃にようやく雨が収まってきたのを見計らい、視察に出向いた菊次郎の眼前に広がったもの。それは昨日までの穏やかな風景と打って変わり、水に押し流された家や田畑の無残な姿でした。これまで農業や樟脳生産などの経済活動を推進してきた菊次郎でしたが、ここに来て災害対策強化の重要性を理解し、河川堤防強化事業を立案して総督府に提出しました。
現在のように機械化された土木工事などない時代です。並の人間であれば「まだ安定した税収もないのにそんな大規模なインフラ工事の予算は出せない」と考えそうなものですが、前年に土匪が投降を始めた今こそ住民の信頼を得る最大の好機と捉えた菊次郎は、児玉と後藤の同意を得て翌年4月に着工。一般の住民だけでなく前年に投降した元土匪も宜蘭堤防強化工事で雇用した結果、「日本は清国と違う」「産業で得る税収だけが目当てではなく、本当に住民のために堤防を築こうとしている」と宜蘭庁長である菊次郎に対する住民の信頼は深まり、明治33年から34年までの第一期工事に8万人もの人々が参加することとなりました。
明治30年(1897年)の宜蘭の人口が109,204人であったことからも、どれだけ多くの住民が賛同し、この堤防強化事業に参加したかが理解できます。
この後大正9年(1920年)に「八田ダム」の愛称で知られる灌漑用の「鳥山頭ダム」が台湾南部にて着工されますが、それより20年も前に、西郷菊次郎により日本と台湾の信頼を築く礎がつくられていた事はもっと評価されて良いのではないでしょうか。

明治35年(1902年)、菊次郎が台湾に赴任してから7年。ようやく盤石な信頼関係を築き、本土並みの施政を行えるようになりつつある菊次郎に、故郷奄美の親戚、龍佐文から一通の電報が届きます。
「アイカナ シス」

生母、愛加那の死去の知らせでした。

(続く)

参考文献

「西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯」(佐野幸夫著:文芸社)

参考論文

「植民地時代台湾の農業統計」(黄 登忠・朝元照雄 共著)

近況

三連休中、当時の土匪の争いを想像していると現実には目の前で姪の姉妹の終わりなきおやつ争いが。凡人には子供の争いの収拾すら骨が折れます。

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新 志磨子

新 志磨子(あらた しまこ) 日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。
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