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本当は面白い「奄美シマッチュ伝」3

©奄美市

昭和28年 祝賀の飛行機に答える旗の波 (©奄美市)

~奄美の心を一つにした夏~

例年よりもだいぶ台風が少なく真夏日とスコールが頻発する今年の夏、皆様はいかがお過ごしでしょうか?私には麦茶と扇風機とアイスノンという夏の必須アイテムがあるのですが時々アイスノンを冷やし忘れていた事に気がつき、自らの段取りの悪さを呪いつつ、寝苦しい夜を過ごしております。

そんな軟弱なシマッチュの近況はさておき、本日は奄美に住んでいれば誰でも耳にするであろう泉芳朗氏のお話です。と言っても昭和28年12月25日の話ではありません。

復帰記念日には出来るだけ関連行事に参加させて頂いている私ですが、毎年首をひねっています。「祖国復帰」の行事にも関わらず国歌斉唱が全くないという点も問題ですが、毎年、この日に復帰したという結果だけがクローズアップされており、昭和21年2月2日に本土から切り離され、どのように復帰運動を島内に広げ、島外の出身者と連携し、いかに「非暴力主義社会運動の手本」となっていったのか。そこがきれいに省略され「奄美群島は昭和21年に本土から分離されましたが島民みんなで復帰運動をがんばったので昭和28年に日本に復帰しました。めでたしめでたし」という、小学生レベルの知識しか共有されていない気がしてなりません。「なぜ署名運動だったのか」「なぜ断食に至ったのか」という途中経過が伝わっていないのです。

実際は初期の左派政党色の強さに対する思想弾圧、朝鮮戦争勃発の影響、サンフランシスコ条約締結前のタイミングを図った運動展開など、映画が出来るくらいに多くの島内・島外のドラマがあったのですが。

今日はその中でもシマッチュの心をひとつにするきっかけとなった昭和26年(1951)の復帰運動について、奄美の復帰運動を率いた泉芳朗氏と、その影響を明らかにするために米国側のダレス特使を中心にご紹介させて頂きます。


昭和26年元旦。前年6月に開始された朝鮮戦争の影響拡大を懸念したマッカーサー元帥は、アメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させ、日本を再び独立国として国際的に承認するための平和条約締結と再軍備を示唆しました。

その協議のため同年1月25日にダレスが特使として来日。18日間の滞在中、三度にわたり吉田茂首相(当時)と会談を行います。

アメリカ側としては朝鮮戦争への協力体制のため日本の再軍備を求めますが、吉田首相は昭和21年に制定された日本国憲法と軍隊ではなく「保安隊」(後の自衛隊)創設を盾に、本格的再軍備は避けることになりました。

しかし領土に関しては「返して欲しい」と言ったところで「じゃあ返します」とはなりません。終戦直後の秋から既に日本政府は領土返還要求に向けて水面下で準備を行い、昭和22年3月には外務省から連合国へ向けて「南西諸島は日本に残すべきである」という領土調書を提出していましたが、南西諸島や小笠原諸島の軍事拠点の必要性は高いのは今も同じですし、すぐ隣の朝鮮半島で首都ソウルが度々北朝鮮軍に奪われるという当時の状況下での「南西諸島の返還」はアメリカ側からすると「いや、今そっち優先出来ないから!朝鮮半島で戦況が定まらないのに拠点の行政権移行出来る状況じゃないから!」という状態だったのかもしれません。実際、マッカーサーはダレスに「領土についての議論は一切しない、と吉田に伝えるべきだ」と強調していました。

しかし日本側の領土返還に対する強い姿勢は、アメリカ側に強い印象を与えました。

昭和26年2月8日の朝日新聞にて吉田首相は「琉球・小笠原諸島については、民族的感情を尊重することが将来の日米友好関係から見ても必要である」と述べ、ダレスは「【民族感情は尊重する】が、ポツダム宣言の基本原則を変更することは他の連合国の不満もあり、極めて困難なことである」と答えました。

この「民族的感情を尊重する」という点が、島内外の復帰運動を大きく動かすきっかけとなります。

東京で条約締結に向けての協議が進んでいる頃、奄美では具体的な復帰運動開始に向けて動き始めていました。

国際条約締結ともなれば、必ず領土についての取り決めが行われる。そうなると最悪の場合、戦前に日本が統治した朝鮮半島や台湾と同じくこのまま祖国から切り離されるかもしれない、そこまではなくてもアメリカによる統治が永久に続くのではないかという不安と、「島外では出身者達が奄美の日本復帰を願って署名運動を始めているのに、肝心の島内でそういった動きがない」という村山家國氏による南海日日新聞での社説を通じた呼びかけもきっかけとなり、それまで戦勝国アメリカへの気兼ねと畏怖と「敗戦国民が主張したところで無理だろう」という諦めから半ばタブーとみなされていた「日本復帰」への動きが、「民族的感情を尊重するのであれば、奄美の郡民がどれほど日本へ帰りたいと願っているかという民意の多さを見せるしかない」と、本格的に高まったのでした。

2月13日の会合では32団体、70名の出席者が5時間にわたる議論を繰り広げました。その中で主催者代表の泉芳朗氏はこのように発言しています。

「我々は今、民族的な岐路に立っている。いつまでも黙って見守っているような優柔不断の態度でいいのか」
泉は元々小学校の教師であり、各地の青年団や婦人団体に文学指導を行う詩人であり、包容力のある人柄が周囲の信頼を得ていました。しかしその優しさからは想像もできないほどの鉄の意志を心に秘めていたのです。

翌2月14日に奄美大島日本復帰協議会発足。会長には泉氏が選ばれ、群島内での復帰請願署名運動が開始されました。2月16日に署名用紙が群島内の支部へ配布され、4月10日までに回収した署名に参加した人数は当時の14歳以上の群島民のうち、99.8%。拒否したものはわずか56名。

この結果は4月16日に首相、衆参両議院議長、ダレス特使、マッカーサー後任のリッジウェイ中将、ワシントンの極東委員会、国連事務局長宛にも送られました。

5月16日、東京を中心に展開していた出身者達による奄美連合を通じ、衆議院に提出された群島民の請願署名受理。衆参両議院は、6月2日に戦後初の領土の祖国復帰に関する決議を可決。6月21日には東京の復帰対策委員たちがダレスに直接会って復帰陳情も行います。この国内での勢いを受け、本土でも新たな署名運動を行うことが決定しました。

しかし7月10日、その勢いに冷水をかけるような知らせが届きます。

条約の最終案が発表されたのです。

やはりその中でも、「北緯二十九度以南の南西諸島を米国を施政者として信託統治とする」と記載されていました。

それを知った奄美では皆茫然自失の状態となってしまいました。戦前、南太平洋の島々が欧米諸国の植民地となり、文明的とは言いがたい扱いを受けていたことを知っていたからです。

実際、戦争は終わっても米軍からは最低限の援助しかなく、港や道路などの公共機関は爆撃されたまま修復もされず、学校も父兄が力を合わせて建てたバラック小屋の教室でかろうじて授業を行う状況が既に6年続いていました。「このまま島に閉じ込められたままなのだろうか」「子供達に満足な教育を与えることも出来ぬままなのだろうか」思いつくのはよくない考えばかりです。

そんな群島民に対し、泉氏はじめ復帰協議会の幹部たちは7月13日に名瀬市民総決起大会、7月19日に第一回日本復帰郡民総決起大会を開催し、「住民の99%が望まない一方的草案を我々に押しつけるようなことはありえないと信ずる。講和会議の瞬間まで死闘を続けよう」と勇気づけ、ハンガー・ストライキ(断食)実施と「日本復帰の歌」等の発表を行いました。

8月1日午前1時。泉氏は20余万の群島民の悲願を達成するために、名瀬の高千穂神社境内にて断食を開始。その知らせが島民に伝わるにつれ、神社へ激励に向かう人は一万人余り、各地域で断食を行う人が次々に増えていきました。8月4日の午後10時から翌5日の夕方までは名瀬市内の映画館、料理屋、飲食店、商店が一斉休業。断食に参加した人数は4日1800名、5日6,000名に膨れ上がりました。島民の心がまとまりつつある事を感じた泉氏は、8月16日の吉田首相の草案についての説明演説を行った後にも断食を実施。サンフランシスコにて条約が締結される会議中の9月5日にも3度めの断食を実施します。

この度重なる断食に対して、ダレスは怒りを隠しませんでした。アメリカからすると敗戦国である日本に対し、再軍備も強制せず、南西諸島においても当面の間は信託統治を行うとはいえ、潜在的な主権は日本にあることを認めるという寛大な条件下での条約だと考えていたからです。条約締結のために渡米した吉田首相との会談に際し、真っ先に奄美群島での集団断食に対して抗議しました。

「日本の領土にしておかれたいからといってハンガー・ストライキを行うとは心外である。南西諸島をアメリカは戦略的必要に基づいて管理しようとするのであって、領土とするものではないことは、貴方によく話した通りである」

「貴方から住民を日本人にしておきたいとか、その他申し出られた希望をどうやって実現しようか考えてみたいと思っているところである。そこにハンガー・ストライキのような示威運動をされることは、アメリカの立場を極めて困難にする」「日本のためにいろいろ計っておりながら、なお日本国民のデモンストレーションを受けるようではアメリカ人が納得しない。今少し日本人の自制を望む」

こうして奄美群島の行く末をめぐる昭和26年の熱い夏が終わりました。

当時世界で一番貧しい敗戦国日本の小さな島の島民たちが大国アメリカから、非暴力に徹した活動でこれほどの強い反応を得たことを、いったいどれだけのシマッチュが知っていたでしょうか。

結果的にサンフランシスコ条約は昭和26年9月締結され、米軍による信託統治が2年後の昭和28年12月25日まで続くこととなりますが、この断食以降、島民の日本復帰にかける思いはますます一丸となり、機運を得て返還への道筋となっていくのです。


これを書いているのは8月8日。ダレスが「アメリカ政府は奄美群島を日本に返還する用意がある」と声明を発表した昭和28年の同じ日からちょうど63年となります。

©奄美市

昭和28年 ダレス声明を祝う郡民大会(©奄美市)

歴史に「もしも」はありませんが、この時に私達シマッチュの先輩たちが立ち上がっていなかったら。署名を一度実施した段階で諦めていたら。島外の出身者達が尽力してくれていなかったら。今とは違う奄美になっていたかもしれません。奄美の島民性として「新しもの好き」「すぐ飛びついてすぐ飽きる」「自分の意見を言わない」と言われますが、復帰運動の時はだいぶ様相が異なります。特に昭和26年から28年にかけては、思想信条を議論し、文芸誌を自費出版し、復帰運動のために復帰協議会に子供から老人まで寄付を惜しまず「とにかくシマの未来のために」と、島民が積極的に自ら行動したのです。

現在、地方創生の名のもとに改めて地域経済活性化が叫ばれていますが、島民一人ひとりが輝くためには、全く異なる地域の成功例だけではなく過去の事例から学ぶことも必要不可欠ではないかと考え、復帰運動の一コマを取り上げました。

 

参考文献

全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」(間 弘志著:南方新社)

奄美返還と日米関係 戦後アメリカの奄美・沖縄占領とアジア戦略」(ロバート・D・エルドリッヂ著:南方新社)

奄美教育 占領行政下における復帰運動と教育」(寿 富一郎:海風社)

筆者近況

少女マンガの神様7年ぶりの奄美での講演会で、改めて47年続く創作活動にかける熱意を感じました。

 

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南 琴乃

南 琴乃

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

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