記事

本当は面白い「奄美シマッチュ伝」2

シマッチュ伝2バナー写真

~奄美のために戦った高田少将~

このページをお読みの皆さんは、なにかの集会などで「賛成の方、手を挙げて」と判断を迫られた時、とっさにキョロキョロと見回して、周りの反応を伺うことはありませんか?

「本当はどっちでもいいから、意見の多い方にしておこう」ということはありませんか?

残念ながら、大人になればなるほどそんな判断を自分の考えだけで決めることが難しくなります。自分以外の人への影響などを考えると、余計に判断が難しくなるからです。

しかし、自らが信じた道を貫く信念の人たちが現れることによって波紋を起こし、やがて歴史を動かしていくのです。今回は71年前の終戦直後、もう一つの「戦い」をご紹介します。

1945年8月15日。徳之島。
奄美守備隊司令官、高田利貞少将は終戦の玉音放送を聞きました。
前年7月に赴任する際に、上官からはこう言われていました。
「残念ながらサイパン島をやられた。
今は小笠原、奄美群島、沖縄、台湾、フィリピンを足場にして最後の決戦をやらなければならなくなった、この最後の一戦はどうしても頑張り抜いて貰わねばならぬ」
それは、北上しつつある米軍艦隊を命がけで沖縄・奄美で食い止めるという意味でした。
6月に沖縄司令部玉砕の知らせが入ってから、いつその日が来るやもしれぬと考えていた高田少将に終戦の知らせは突然過ぎて、涙も出ませんでした。
様々な考えが脳裏をよぎります。
「これからの将来はどうなってしまうのか?」
「無条件降伏とはいえ、どうしても承知できない条件を突きつけられた時、どうすべきなのか?」
しばらく考えた後、高田少将は「われ昭和の忠臣となろう」と決意します。
戦争に負けても自分は日本国の軍人、今後も国家のためにとの志は変わらないという強い決意でした。元々高田少将は高潔な人であり米国人捕虜も丁重に扱ったため、戦後徳之島の守備隊からは、誰一人として戦犯として扱われる者が出ませんでした。

8月28日、米軍からの通信筒が投下されました。
戦後処理の始まりです。

9月3日、米軍から代表者を沖縄へと要請する連絡に、高田少将はこう答えました。
「私が代表者として参る決心をしました。その理由は閣下の御力により平和への礎を固く築きたいということ、そして奄美群島を(ドイツとフランスが幾度も領土の奪い合いを行った)アルザス・ローレンのようにならない事を、閣下にお願いしたいと考えているからです」
それまで数百年に及ぶ欧米諸国の、弱い地域に対する植民地化、そして第一次大戦の後に世界のあちこちで変わっていった国境線。
それを知っていたからこそ、高田少将は「戦勝国は、奄美群島から南の島々を日本から切り離す気ではないのか」と心配しつつ、9月7日に降伏文書に署名しました。

9月21日、奄美守備隊の武装解除のため米軍のカンドン大佐と部下が徳之島の平土野に上陸しました。
準備した会見所にて、カンドン大佐が持参した文書の訳文を読むと、そこには「奄美群島」ではなく、「北部琉球の兵器を渡せ」と書き記されていました。
高田少将はただちに「ここは奄美群島であり北部琉球ではない」と主張しました。

カンドン大佐(以下、カンドン)「貴官がここに保管している武器類を渡せばよいのだ」
高田少将(以下、高田)「ここは奄美群島であって、北部琉球ではない」
カンドン「奄美群島は北部琉球だ」
高田「何によってそう言うか?」
カンドン大佐は「地図だ」と言い、持参した地図を見せました。
そこにはたしかに「北部琉球」と記されています。

高田「これは誤っている。日本軍には通用しない。北部琉球は沖縄の北部だ。貴軍の司令官に電報連絡して訂正されたい」
カンドン「自分は打電しない」
高田「ならば私が打電しよう」
カンドン「文面は私が書こう」
高田「頼む」
カンドン大佐が書いた文章を通訳に渡し、読み上げてもらうと、
「北部琉球の兵器を引き渡すべしと指令されているが、北部琉球は沖縄の北部であるので、北部琉球という箇所を奄美群島と訂正されたい」と記されていました。
高田少将が納得し、これを打電しようとしたその時、今度はカンドン大佐が制止しました。

カンドン「待て、貴官はスチルウェル大将に命令する気か」
高田「命令ではない、指令を受けるだけだ」
カンドン「これは命令文だ」
高田「文書を作成したのはあなたなので、その責任はあなたにある」
カンドン大佐は顔を赤くして、「打電を待て」と言いました。
高田「では私が書く」
カンドン「貴官の打電を禁ずる」
高田「しからば、奄美群島の兵器を北部琉球の兵器として渡してよろしいかと、天皇陛下のご裁可を仰がなければならない。ご裁可があるまで兵器受領は待たれたい」

その言葉を通訳から聞いた大佐は激しく怒りました。
カンドン「一個師団の兵力をもって強制受領する」
高田「私はたとえ銃殺されようとも、私の口から、ここの兵器を【北部琉球】の兵器として渡すとは言えない」
にらみ合いが数分続いた時、一本の電報が届きました。
高田少将は知らなかったのですが、二人のやり取りは既に沖縄の司令部へ報告されていたのです。
その電報には「奄美群島所在の兵器受領」と記されていました。
面会が始まり三時間、議論が始まってから二時間半が経過していました。

この「北部琉球」という表記はその後も同年12月の本州への復員完了まで度々公文書に記され、それを見つける度に高田少将は訂正を求めました。
訂正を求める度に米軍将校から「またか」と苦笑されても、高田少将はまったく妥協せず、「奄美群島は鹿児島県大島郡であり、北部琉球ではない」と一貫して主張しました。
また、本州への帰還する日を待機しながら部下たちと共に道路や橋などをつくり、軍の備品であった工具・毛布類にいたる官品を島の人達に分け与えるなど、終戦の日の決意通り品格を保ち、その姿に米軍も感銘を受けました。

翌年2月2日、奄美群島とトカラ列島は米軍統治を受け、本州から切り離されます。
奄美群島に住まう島民、そして本州に住む出身者たちは総力を挙げて日本へ復帰するための運動を展開しましたが、高田氏も米軍の総本部へ出向き、終戦直後の文書でのやり取りと米軍側が譲歩したこと、奄美群島が鹿児島県の一部であることを改めて説明しました。

国家間の公文書において、記載事項は一文字の誤字も許されません。「奄美群島」と訂正されている文書を米軍側が受け取ったということは、「認めた」ことと同意義でもあります。
この事に関しての資料は高田少将ご本人の著書のみですが、終戦直後に高田少将が粘り強く主張し続け、当時の文書に「北部琉球」ではなく「奄美群島」「鹿児島県大島郡」など記載された意義は大変大きいのです。

一度妥協すれば次はもっと強く要求されるのが交渉の常でありますが、平和な現在と異なり、敗戦国の軍人が戦勝国の階級の高い軍人に威嚇されようとも、一切ひるまなかったという事はなかなか出来ないことでもあります。
ましてその拘った内容も、別に高田少将個人にとっては損でも得でもないのです。
気づかなかったふりをして、その場の空気を読んでそのまま調印して終わることも出来たでしょう。
しかし、高田少将は徹底して「奄美群島民のため」と譲りませんでした。
私達が住む奄美は、このように外交の場でも守られてきたのです。

1957年、高田氏は当時返還されぬままの沖縄や小笠原、北方領土を気にかけつつこの世を去りました。
もうすぐ71回めの終戦記念日が訪れます。現在80代~90代のご親戚がいらっしゃる方はぜひ、当時のお話を伺ってみて下さい。
そこには現在の奄美につながっていく「誰かのために」という強い思いがあります。

 

参考文献

「運命の島々 : あま美と沖縄」(高田利貞 著)
「奄美返還と日米関係―戦後アメリカの奄美・沖縄占領とアジア戦略」(ロバート・D・エルドリッヂ 著)

降伏文書

 

降伏文書画像日本政府は1945(昭和20)年8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月2日には日本側と連合国側代表が米艦船ミズーリ艦上で降伏文書に調印しました。

沖縄では、同年9月7日に南西諸島の全日本軍を代表して宮古島から第28師団(豊部隊)の納見敏郎(のうみ・としろう) 中将のほか、奄美大島から高田利貞(たかだ・としさだ)陸軍少将、加藤唯男(かとう・ただお)海軍少将らが参列し、米軍に対して琉球列島の全日本軍は無条 件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に署名しました。これに対し、米軍を代表してスティルウェル大将が日本軍の降伏を受諾・署名し、沖縄戦は公式に終結 しました。

引用元「沖縄県公文書館
http://www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibition/surrender

 

 

筆者近況

例年よりかなり早く梅雨が明けた割に台風はやっと1号発生、そしてスズメバチが低いところに巣を作っているので秋に台風オンパレードにならないかと心配しつつも、奄美パークの少女マンガパワー展が楽しみで仕方ありません。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう


The following two tabs change content below.
南 琴乃

南 琴乃

日照りだろうと台風が来ようとハイビスカスのようにしぶとく生きたい40代。奄美市在住。

関連記事一覧

  1. ©奄美市
PAGE TOP