〜奄美の未来を想う〜

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奄美群島が日本に復帰して六十周年。還暦を迎えました。街歩きから始まった本企画も原点に立ち戻り、復帰運動ゆかりの地を巡りつつ思うところを綴ってみましょう。いざ探訪−

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勝手世騒動

不当な扱いからの解放を求めたという意味では、外部からの支配を受け続けた奄美の島民が立ち上がったのは、日本復帰運動が初めてではありません。(※1)

長きにわたり南島収奪を経済の基盤とした薩摩藩は、封建体制の崩壊後もその収益を確保しようと、明治八年の廃藩置県施行に先立って抜け目なく立ち回りました。それが、明治五年の段階で島民代表と砂糖専売の契約を結んだ、県の保護会社「大島商社」です。

そもそも大島商社の設立には、維新三傑とも称えられる西郷隆盛の後ろ盾があったと言われます。遠島中は子弟に学問を手ほどき、砂糖専売制による搾取に憤慨したと伝わる「義人」の姿はそこにはなく、旧士族の権益を何よりも優先するもうひとつの顔を垣間見る思いです。

大島商社によって奄美の砂糖は総買い占めされ、その買い上げ価格の設定も商社の言いなりなら、買い上げ代金の一部をもって払い下げられる消費物資等の価格も商社が一方的に決めたものでした。更に、商社商人の島民に対する傲岸不遜な態度は旧藩の役人と同様で、従順な島民が平身低頭し無償で労役を提供したといいます。

こうした江戸時代と何ら変わることのない状況を目の当たりにして、怒りに震え立ち上がったのが洋行帰りの青年・丸田南里でした。

江戸時代末期、薩摩藩が企てた奄美大島への白糖工場建設の発注を受けて、長崎のグラバー邸で有名なグラバー商会が奄美に乗り込んでいたことをご存知でしょうか?白糖工場は島内四か所に建設されたものの、台風被害や燃料等の問題で数年のうちに全て閉鎖されました。その際、グラバーの「お土産」のような形で、帰路に便乗して出郷したのが当時若干十五歳の南里でした。

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S28年…ダレス声明を祝う郡民大会/写真提供:奄美市

 

謎の英雄

マチイロマガジン31号掲載写真南里の人生については、多くが謎に包まれています。しかし、出島後の十年間に英国はじめ世界各国の土を踏み、様々な経験を積んだことは間違いないようです。少年時代に、西郷隆盛と同時期に流罪となっていた漢学者・重野安繹からの教えを受け学問の基礎を養っていた南里は、広い見識を得て才気煥発なリーダーへと成長していました。

明治八年に始まった大島商社の解体と砂糖の自由販売を求める運動は、あっと言う間に島民の支持を得て、「勝手世騒動」として燎原の炎のごとく燃え広がりました。大島大支庁だけでは事態を収拾できず、明治十年には五十五名の陳情団が上鹿する事態に発展。しかし、鹿児島に到着するや全員が投獄され、一部は西南戦争に駆り出された上、帰りの船が遭難するなど不運もあり、生還者はその半分もいませんでした。

島に残った南里も投獄されましたが、かえって島民の反発を強める結果となりました。そしてついに、明治十一年七月をもって支庁長退陣、大島商社解体という劇的な幕切れを迎えました。

その後、南里は上京。奄美の特産品を売り出す事業に取り組むも道半ば、三十五歳の若さで亡くなっています。彗星のごとく現れ、島民を救い一瞬の輝きを放った後、瞬く間に消え去った英雄。まさに小説のような一生は、類稀なものに違いありません。しかし、かつて奄美が日中交易の「道の島」と位置付けられ、海の民として活躍していたことを思えば、南里は突然変異的に誕生したというより、長い圧政により自身のDNAを忘れかけた島人が本来の姿を取り戻したような人物、と思えてなりません。

勝手世騒動を通じて、島人が身に染みて分かったこと。それは「学問」の重要性でした。恵まれない出自から、道理を通し功を成すためには学を修めるしかない。子弟の教育に心血を注ぐ地域の機運は高まり、錚々たる人材が輩出、やがて日本復帰運動を本土側で支える成果へとつながっていきます。

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S28年12月…大島支庁開庁/写真提供:奄美市

 

百花繚乱

近現代の奄美の人材群像を俯瞰すると、鳥肌が立つような興奮を覚えます。政官財から学会・芸能・スポーツまで、あらゆる分野に優秀な人材を輩出し、各界をリードしてきました。

中でも法曹界における、キラ星のごとき人材の群生は壮観です。大正十四年に大審院長(最高裁長官)まで上り詰め後進に道を拓いた泉二新熊、奄美初の司法官・岡程良(丸田南里の姉宅に下宿し強く影響を受けたと伝わります)、日弁連会長を務めた奥山八郎などそれこそ枚挙にいとまがありません。

マチイロマガジン31号掲載写真そして戦後の法曹界を代表する巨星と称えられるのが谷村唯一郎です。明治二十年四月五日、名瀬市井根町に生を受けた谷村は、大島高等小学校卒業後、大島島庁に勤務しましたが、志を法曹界に求め明治三十九年上京、働きながら中央大学法科の夜間部を卒業しました。大正六年に弁護士試験を主席で合格した後は、東京弁護士会々長を務めるまでになりました。

戦後は幣原内閣の司法次官に起用され、新憲法下の司法制度改革に手腕を発揮しました。日本の戦後再建に大きな業績を残した谷村は、昭和二十六年には最高裁判所の判事に任官しました。役所の給仕から身を立てた青年は、ついに認証官まで上り詰めたのです。

谷村は法曹人として多忙を極めながら、他の先人同様、強い愛郷心をもって奄美の祖国復帰に尽力しました。昭和二十二年の奄美連合発足時には、連合総本部の委員長に高名な露文学者・昇曙夢、東京本部委員長には谷村が選任されました。

昭和二十五年には昇・谷村の両委員長の連名で、マッカーサー司令官に復帰請願を提出。翌二十六年には昇と谷村は国会において参考人として公述し、奄美群島の日本本土帰属を強く訴えました。その年の四月に最高裁判事に就任したため委員長の座を譲りますが、復帰運動への谷村の貢献度の大きさ、法律のスペシャリストがトップに立つことによる組織全体に与えた安心感には計り知れないものがあります。

復帰運動と言えば、どうしても地元での活動やそれぞれの思いが先行しがちですが、本土同胞の組織的な支援なくして成功はありえなかったことを思い起こし、島人はこの機会に今一度感謝すべきと思います。

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退官後の谷村は再び在野弁護士として活躍するかたわら、九十五歳の天寿を全うするまで、奄美の復興や母校の発展に尽力しました。そしてその没後も、谷村の生家は「谷村サロン」として地域コミュニティに貢献しています。

 

復帰運動の舞台

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昭和二十一年二月二日いわゆる「二・二宣言」によって、奄美群島が日本本土から行政分離されて五年。困窮する生活状況などから立ち遅れていた地元奄美での復帰運動が、「奄美大島日本復帰協議会」の発足によって遂に本格始動します。

住民の九十九%以上の支持を得た署名運動を皮切りに、名瀬小学校校庭を舞台とした決起大会が繰り返されました。同年八月一日〜五日には泉芳朗復帰協議会議長が高千穂神社にて断食祈願を決行、全郡民集団ハンガーストライキへと発展しました。同時に、署名簿を携えた密航陳情団が本土上陸。呼応して出身者全国大会が新橋駅前で行われるなど、怒涛の運動が繰り広げられていきました。

そして昭和二十八年十二月二十五日、遂に奄美群島は日本復帰を果たしました。はるか波濤の先に日本本土を望みつつ、おがみ山山頂で歓喜の万歳が繰り返されました。

泉芳朗が郷土への限りない愛情を謳った一篇の詩を以下に引用します。

『島』

私は 島を愛する

黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を

一点だから淋しい

淋しいけれど 消え込んではならない

それは創世の大昔そのままの根をかっちりと海底に張っている

しぶきをかけられても 北風にふきさらされても 雨あられに打たれても

春夏秋冬一枚の緑衣をまとったまま

じっと荒海のただ中に突っ立っている

ある夜は かすかな燈台の波明りに沈み

ある日は 底知れぬ青空をその上に張りつめ

時に思い余ってまっかな花や実を野山にいろどる

そして人々は久しい愍(あわれ)みの歴史の頁々に

かなしく 美しい恋や苦悩のうたを捧げて来た

わたしはこの島を愛する

南太平洋の一点 北半球の一点

ああ そして世界史の この一点

わたしはこの一点を愛する

毅然と 己の力一ぱいで黒潮に挑んでいる この島を

それは二十万の私 私たちの島

わたしはここに生きつがなくてはならない人間の燈台を探ねて ——

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S29年…泉市長と市職員/写真提供:奄美市

復帰から学ぶ未来

マチイロマガジン31号掲載写真以前ベストセラーになった『銃・病原菌・鉄』というノンフィクションがあります。この本は、著者がニューギニアの友人からの問い「あなたがた白人は、たくさんのものを発展させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」に対して考察を重ねていく大著です。

第三章で描かれる「カハマルカの惨劇」は印象的です。西暦一五三二年(日本の戦国時代で織田信長誕生の前々年)当時世界最大のインカ帝国の皇帝アタワルパは、ペルーの高地カハマルカでスペインの征服者ピサロ将軍と対峙し、八万の兵に守られていたにもかかわらず二百足らずのスペイン軍に数分の後に捕えられてしまいます。スペイン側は莫大な身代金を得た上に、アタワルパを処刑、首都クスコに入城しインカ制服を成し遂げます。

両軍の圧倒的な違いは何だったのでしょうか?まずインカ側は、文字を持たず情報力に大きな差がありました。ピサロたちが何者でどういう目的をもって訪れているのか、殆ど何も知りませんでした。また、馬をはじめとする大型哺乳類の家畜も持たず、初めて見るスペイン軍の騎馬に恐れおののいたといいます。更に、大型哺乳類による物資の移動も行われていなかったため、車輪も実用化されていない上、鉄製の武器すら持っていませんでした。

著者ジェレド・ダイアモンドはその差が生じた原因を、東西に長い世界最大のユーラシア大陸の存在に求めます。ユーラシア大陸においては、栽培化・家畜化が可能な動植物を早い時期から手にすることができ、人口の集積と社会の組織化が進んだこと。地形的にも大きな障壁がなく、文字をはじめとする技術がいち早く伝播したこと。要は、環境を主な要因として文化・個人といった限定的な要因が加わり、ヨーロッパ人に銃・病原菌・鉄といった武器をもたらし、世界を席巻するに至ったというものです。

重要なことは、その差は「環境」がもたらしたものであり、人種間に「能力」の差はないということです。実際のところ、大航海時代が始まる以前の十五世紀半ば頃までは、ヨーロッパは文明のあらゆる面で中国やイスラム社会に後れをとっていました。また現代において後進国と位置付けられる国の人々は、環境を与えられれば先進技術を習得できるばかりでなく、過剰な情報を受容することが生活の中心となっている先進国の人々よりも、むしろ聡明であると言われます。

本書でのテーマは、新世界と旧世界、欧米とその他の地域の差が何故生じたかという世界規模の謎ですが、私たちとしては奄美に置き換えて考えざるをえません。なぜ奄美は津代湊の戦い(※2)に勝利し、島津軍を撃退することができなかったのでしょうか?なぜ奄美の王国が琉球王朝や薩摩藩を征服したり、米国からの独立を守ったりするようなことにはならなかったのでしょうか?

言うまでもないことです。遠海離島で十分な平地を持たない奄美群島は、薩摩や琉球ましてや米国と伍するような生産を行う「環境」にはなく、国力に圧倒的な差があったからです。しかし一方で、人としての「能力」に差がないことは、輩出した人材や日本復帰という偉業によって証明されています。そして、奄美には世界に誇れる多様な自然環境と独自の文化が生きています。

人の持って生まれた資質に大きな違いがないのであれば。環境によって人が変わり歴史が変わるというのなら。奄美の若者は、あえて厳しい環境に身を置くべきではないでしょうか。グローバリゼーションの波が押し寄せる現代にあっては、一層自分をしっかり持たなければ、志は簡単に押し流されてしまいます。

大丈夫。私たちには素晴らしいお手本が大勢いらっしゃる。復帰六十周年を迎えて、その歩みを振り返りつつしみじみ思うところです。

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※1:遡れば「勝手世騒動」に先立つ一八六四年(文久四年)には、薩摩藩の苛烈な砂糖政策に苦しんだ徳之島の島民が、密売を疑う役人による拷問に怒り「犬田布騒動」を起こしています。

※2「津代湊の戦い」:一六〇九年三月四日琉球を征統しようと山川港から出港した薩軍は、三月七日には津代湊(現笠利町手花部集落)に入り、島民三千人による抵抗を受けるものの火器を駆使し笠利大親(琉球王朝から配属された地域の支配者)を捕えました。嵐に遭って散り散りになっていた薩軍は、奄美大島各地に漂着して一両日中には大島全島を制圧し南下。四月一日には首里城を占拠してしまいました。

【参考図書】
『奄美復帰史』村山家國(1971)
『奄美(しまんちゅ)の群像 島さばくりⅠ』(2000)右田昭進
『銃・病原菌・鉄』(2000)ジャレド・ダイアモンド

 

なちかしゃ写真館

戦中〜日本復帰後までの名瀬市(現 奄美市)

写真提供:全て奄美市

 

これはボックスのタイトルです。

Profile

歩きすと

マチイロマガジン31号掲載写真とうだひでひと 1967年、鹿児島県名瀬市(現、奄美市)生まれ。筑波大学卒。第2学群比較文化学類にて宗教学専攻。卒業論文は『奄美のユタ神のコスモロジー』。研究継続を志して帰郷した後は、在野としてアカデミックな枠を超えた奄美研究に没頭し、その一環として奄美探訪を書き綴っている。大学在学中には男声合唱団メンネルコールに所属し、パートリーダー兼ソリストを務める。音楽嗜好はクラシック系歌曲からハードロックまで全般。最近は、地域活性化バンド「濱田洋一郎と商工水産ズ」の一員として「音楽のまちづくり」活動に取組んでいる。
また、25歳から始めた相撲競技では、職域相撲での優勝経験。県民体育大会での監督経験、全日本実業団及び西日本実業団への出場など、スポーツマンの一面も。奄美市職員。

この記事は平成25年11月発行のマチイロマガジン31号より転載しました。
掲載している情報は全て取材当時のものとなります。

 

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