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平家落人伝説三 〜浦上・有盛神社〜

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奄美には、資盛(すけもり)・行盛(ゆきもり)・有盛(ありもり)の平家三将が落ち延び、諸鈍・戸口・浦上にそれぞれ城を構えたという伝説が残っている。中でも、浦上の城跡である有盛神社は、今も地域にとって重要な場所であり続けている。平家伝説を通じて、何が見えてくるだろう。
いざ探訪−

 

 

有盛神社

奄美探訪壽さん写真

ご案内いただいた浦上集落の壽町内会長

浦上集落の壽 剛進(よしのぶ)町内会長は、「有盛神社あってこその浦上集落」と言い切る。現在でも初詣、豊年祭、合同慰霊祭といった集落の主だった行事は、有盛神社が舞台となっている。

鳥居をくぐり、うっそうと茂る森へと参道を登る。

社殿がある広場をサンテラという。サンは島口のシャア(下)が更に訛ったもの。集落行事で使われるのは、主にこのサンテラだ。現在、有盛神社下の集会場横に設けられている土俵も、以前は社殿の脇にあったのだという。

サンテラからウン(上)テラへと上がる。ノロの祭りが行われていた頃、サンテラから上は男子禁制だったそうだ。祭事全般を女性が担当し、男性を守護するというウナリ神信仰の島ならではのことだ。

奄美探訪有盛神社浄水場跡近く繁みの合間から、遠く海が見渡せた。若い世代には想像しづらいことだが、大熊集落を出鼻とする大熊浦は、以前は、現在の陸地深く深くに食い込んでいた。鳩浜から徳洲会病院の一帯が埋立地というだけでなく、カトリック浦上教会辺りまで干潟だったと聞く。

そう考えれば、少々奇妙な印象を受ける浦上集落と有屋集落の墓地の位置についても合点がいく。その当時、この場所が祖霊を送り迎える、波打ち際に近い位置だったのだ。「浦上」という集落名が、文字どおり入り江の上という意味なのだと飲み込める。

今回、ウンテラのさらに奥を尾根づたいに歩いた道すがら、いくつもの掘割の存在を教えていただいた。赤木名城にも、外敵の侵入を防ぐため同じような掘割があったことを思い出す。有盛城は、入り江を見渡し、北からの追手に目を光らせる山城としての条件を備えているのだ。

奄美探訪有盛神社

 

アイデンティティ

浦上集落の八月踊りでは、必ず『でっしょう(手習)』という唄が踊られる。

でつしょう初めたろたがよ初めたろ

やまときょら夫婦(をとぢょう)が

初めだつさんな

(訳:手習は誰が初めたか、内地からお出でた美しい夫婦の方によって初められたものである。)

浦上集落では、奄美に「手習」すなわち読み書き・学問全般をもたらした「きょら夫婦」は、平有盛公と鍋加那(シマの女性)とされている。ここで唄われるのは「文化英雄」としての平家であり、そのつながりへの誇りである。

壽さんのお話をうかがって、本当の意味でシマサバクリを知らないと、八月踊りの重要性を実感することは難しいと思った。浦上集落ですら、一時は青年団活動が著しく停滞した時期があったが、そこから盛り返したきっかけは、若い世代が八月踊りを受け継ごうと動き出したことだったという。

八月踊り無くしてシマの行事はありえない。八月踊りに新しい血が加わることで集落の絆が深まり、活動全般に素晴らしい盛り返しを見せた。継承という縦糸が世代をつなぎ、音韻と旋律と肉体の躍動が横糸となって、懐かしゃシマの心を織りなす。

僕自身も含む名瀬の人間が、そもそも頭に入れて置くべきことがある。1613年に薩摩藩の代官が初めて派遣されて以来、当初、現笠利町に置かれていた仮屋(代官所)は、二度にわたって大熊に移され、当時、一寒村に過ぎなかった当時の金久村に移されたのは1801年になってからだ。

大和世以降に限っても、上方以北が中心だった時期と、名瀬地区に首都が移ってからの期間は約二百年とほぼ互角。平家来島が史実かどうかという議論を横に置いても、某かの有力者は上方地区に存在しただろうし、薩摩藩からの寄進を受けた神社建立によって、この地に平家伝説が固定化されたということは、それだけの重要性が認められていたということでもある。

八月踊りを通じて語られるプライドには、しかるべき根拠があった。

 

 

モリヒラの按司

浦上には、平家伝説の本流とは異なるもう一つの重要な伝承が残っている。

旧大島工業高校写真

写真中央に位置し、遠く見える建物が旧大島工業高校

有盛神社がある場所は字名も「有盛」というが、旧大島工業高校の土地は「城田(ぐすくだ)」という。その名の由来は、裏山に城があったためだと伝わる。この裏山は「モリヒラ」と呼ばれ、琉球系の豪族(按司)が城を構えていたとされる。この按司は、男とも女とも男女二名とも言われるが、長い髪をした弓の名人という点が共通している。

有盛は、この按司が住民に害をなしたため、長い髪を洗っているすきを狙って、弓で射て討伐する。この討伐にあたっては、有盛城横の「シンナギ」という場所にいた「ヒョウゴン様」の知恵を借りたという。神通力を持つというヒョウゴン様は、修験者をさすものと思われる。平家伝説を全国に広げたと言われる修験者が、ここでも重要な役割を果たしている。

この「弓の名人」による討伐というモチーフは興味深い。喜界島などに足跡を残す「源鎮西八郎為朝」や与論島の「按司ニッチェー」を連想させるし、各地に伝わる「百合若大臣」の伝承やギリシャの叙事詩『オデュセイア』などとも通底する。

この伝承は、奄美古来の或いは琉球との関係性の中で築かれた秩序や文化を、大和(薩摩)の支配へと上書きする過程のメタファー(たとえ)として読み取れる。浦上は名瀬地区において最後までノロ祭祀が続いた集落だが、有盛神社はノロの重要な祭場の一つとなり、ノロ達は有盛の墓も拝んでいた。稲作儀礼という集落維持のために不可欠な祭りを軸に、内外の要素をしたたかに包含して秩序を再生産してきた。今もって、有盛神社を拝むユタもいると聞く。民間信仰の在りようまで為政者に組み敷かれてきた訳ではない。

有盛墓碑全景写真

有盛墓碑全景

文化13年(1816)、大島代官肥後翁介による有盛墓碑の裏面に刻まれた文章に「有盛君席墓在祠西山中半里所謂馬鬣封者亡姓碑石有女巫峇歳祭之」という部分がある。有盛城から見た西の山中、すなわちモリヒラに髪の長い按司がノロ神によって祀られていると、解釈できる。そして、有盛の墓碑の真後ろに意味ありげに鎮座する古びた石がひとつ。この石が按司の墓碑ではないかとの問題提起がある。

按司の墓碑

按司の墓碑ではないかと提言されている古びた石

墓の表側で大和の神(平家)を祀りながら、墓の裏面では琉球の神を拝んでいるような格好だ。渡瀬線という県境とは異なる生物分布上の境界近くに位置し、薩摩によって、大和であることも琉球であることも封じられた歴史を持つ、ゆらぎの島らしい在りように思えた。

 

 

パワースポット

有盛城の周辺には、「平家」に由来すると思われる「ヒラッケ」など、興味深いスポットが点在する。

tanbo-28-35現在の鳥居の辺りには、有盛の家来随一の力持ちが投げた「力石」があり、子供のお宮参りの際はその石の上を這わせたと伝わる。その石がなくなったために、浦上から相撲取りが出なくなったとも言う。

本茶トンネル開通以降、有盛神社を含む舌状台地を国道が寸断し、城の背後にしては妙に拓けてしまった。現在のUCC営業所から国道を挟んだ一帯が、シンナギという場所にあたる。

シンナギには、鍛冶屋があったという。鍛冶屋と言えば、行盛の居城と伝わる戸口のヒラキ山の山すそに屋敷跡があったことを思い出す。話は飛躍するが、鍛冶炉は母胎とも解釈され、火を司る鍛冶師は霊力又は魔力を持つ存在として、世界中の神話に登場する。圧倒的な生産力や武力の源である鉄器類を創造する存在と思えば、そうした役回りも当然か。

中島川写真以前、ノロの祭りに際しては、近くを流れるキンギョ(神川)で身を清めた。現在、この川には「中島川」という名前が付けられている。これは整備当時の大島支庁長の姓を冠したもので、命名にあたって集落には何の連絡もなかったとか。「上書き」という言葉がよぎる。行われていることは、今も昔も変わらないのか。

有盛神社境内の森林は亜熱帯特有の多様な植生が観察できる場所として、天然記念物の指定を受けている。僕は動植物を詳細に観察する嗜好はないのだが、木々の茂り方、吹きすぎる風まで心地良い。何しろ落ち着く場所だ。有盛の墓を見守るように立つ「五百年松」の存在感も見事だ。

有盛神社の五百年松

そこを訪れたいと自然に思えるとか、そこにいるだけで力が湧いてくるように感じるという意味では、有盛神社が最近の僕のパワースポットということになるだろう。

 

 

アリモリソウ

平有盛は、平家の短い全盛期を支えた総領・平清盛の孫にあたる御曹司(長男・重盛の四男)だが、残念ながら、資盛・行盛に比べて派手なエピソードや和歌などが伝わっておらず、その人となりを想像する材料に乏しい。

tanbo-28-4

ただ、今回、特別に有盛神社の社殿をご案内いただいた際、大変貴重な板絵を見せていただいた。そこには、見目麗しい武者が、怪しげな敵に弓を射ようとする姿が描かれており、有盛が按司を討とうとする情景を連想させる。絵が描かれたのは明治初期のようだが、有盛とモリヒラの按司の伝承がいかに生き生きと語られてきたかを物語る。

正史によれば、資盛・行盛と共に壇ノ浦に身を投じたとされる有盛の享年は22歳。現実に有盛が討伐から逃れ、黒潮を乗り越えて南走したとすれば、板絵に描かれた若武者のような姿であっただろうか。

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有盛神社で採集されたことから命名された花がある。その名も「アリモリソウ」という。冬場、五百年松の根元に、小ぶりで可憐な白い花の群生が見られる。か細い茎の先につましく下向きに咲く花弁の中心には、仄かに紅をさす。哀しき落人の身の上にありながら、美しく生き抜いた清廉な人柄を連想せずにいられない。

 

 

フォトギャラリー

 

Profile

歩きすと

歩きすとプロフ写真とうだひでひと 1967年、鹿児島県名瀬市(現、奄美市)生まれ。筑波大学卒。第2学群比較文化学類にて宗教学専攻。卒業論文は『奄美のユタ神のコスモロジー』。研究継続を志して帰郷した後は、在野としてアカデミックな枠を超えた奄美研究に没頭し、その一環として奄美探訪を書き綴っている。大学在学中には男声合唱団メンネルコールに所属し、パートリーダー兼ソリストを務める。音楽嗜好はクラシック系歌曲からハードロックまで全般。最近は、地域活性化バンド「濱田洋一郎と商工水産ズ」の一員として「音楽のまちづくり」活動に取組んでいる。
また、25歳から始めた相撲競技では、職域相撲での優勝経験。県民体育大会での監督経験、全日本実業団及び西日本実業団への出場など、スポーツマンの一面も。奄美市職員。

この記事は平成25年3月30日発行のマチイロマガジン第28号より転載しました。
掲載している情報は全て取材当時のものとなります。

 

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