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魅惑の奄美大島オーシャンロード 02

画像奄美探訪ロゴ
思いもよらぬ豪雨災害のため中断した本シリーズ。さあ、再び奄美大島太平洋岸の魅力に迫りましょう。
いざ探訪ー

今回は、名瀬から国道を南へ走り、三太郎トンネルからマングローブパークを経て、山間方面から太平洋側のシマジマを回る。最初に車を停めたのは、市集落だ。

 

最果て

最果ての地が好きだ。これ以上先はない土地で、営まれ築き上げられた暮らし。それだけでロマンティックに感じてしまう。西古見に夕陽が似合うならば、市には月光だ。冴え冴えとした満月が海に映り、島影は深く濃い。

奄美探訪 市 満月

数えるほどの灯りが、孤独に寄り添ってくれるようだ。

集落前の海にデン!と浮かぶのはトビラ島。喜界島の女神と市の女神が招き合い、最後にこの場所に引き寄せられたという伝説の島だ。海を隔てた喜界島との親近性を物語るエピソードは数多い。今は静かな佇まいのシマだが、以前は海上交易の要所として栄えたと言われ、そもそも「市」という名称自体、この地でマーケットが開かれたことに由来する。島唄「渡しゃ」の軽快な旋律とリズムに乗って、喜界−市間の往時の海の賑わいに思いを馳せるのもいい。

ちなみにこのトビラ島、ひとつの地番を割り当てられて登記された、歴とした私有地だとか。潮によって歩いても渡れるというが、「何ソレ?!」と思わず声が出てしまう話だ。

地質の面から言えば、市集落一帯は笠利明神崎、加計呂麻安脚場と同じく固い花崗岩質から成り、浸食に強いために、周囲から突き出した地形になっていると考えられる。奄美大島は、地質学の視点から見ても面白い。

 

パイレーツ・オブ・アマミアン?

実は、『日本紀略』などの歴史書や考古学的知見により、千年もの昔、奄美海域を根城にする海賊集団が、九州一円を荒らし回っていたということが分かってきている。

当時の九州と言えば、大陸との交易の最前線として、現代以上にホットなエリアだったはずだ。海賊行為の是非や真偽はともかく、大陸や本土の国際商人たちと渡り合い、交流・連携していた何ともたくましい奄美人の姿が浮かび上がってくる。

『平家物語』の鬼界ヶ島、源氏・平家落人伝説、夜光貝交易といった奄美にまつわる一種の歴史ミステリーも、高度な航海技術と特産物を武器に海上の道を疾走する海洋民族の業となれば、少なくとも理解の糸口がつかめそうだ。

「奄美」とは「隠れた美しさ」という意味。

高いポテンシャルをひけらかさないのは島人の美徳かも知れないが、こうした歴史から見れば、『日本書紀』に出てくる「海見」という呼称こそふさわしく思える。

もちろん今後の学術的成果を待たなければならない部分もあるが、僕らはもっと自らの歴史に自信を持って、時には想像の翼を自由にはばたかせてもいいのではないか?例えば、ジャック・スパロウよろしく海賊ヒーローを思い描き、島人みんなで共有したいものだ。僕らはもっともっと語り合うべきなのだろう。

 

青久

同じ奄美市民が住んでいる土地を、秘境扱いすることには抵抗がある。

青久 牛

それでも、つづら折れに山道を降りた先、放牧用の柵をくぐって土を踏めば、現実にこんな場所があるのだとため息が出る。黒澤映画の「夢」に出てくる、「水車のある村」を思い出す。常に都市機能に囲まれて過ごしている身としては、一種おとぎ話のようで現実感がない。

青久 石垣

やはり目を引くのは、一戸のみの集落を取り囲む石垣だ。集落民総出で築き上げたという石垣は、市の文化財として指定されている史跡だ。近く、有為の士の手によって修復の話があると聞く。「人は石垣」という言葉を残したのは戦国武将・武田信玄だが、かつて石垣を築いた人々は去っても、この儚くも美しいシマに思いを寄せる人は少なくない。

青久集落

青久集落パノラマ

石垣から海岸に出て小川を渡ると、同じく文化財指定を受けている「むちゃ加那」の碑がある。

青久 むちゃ加那の碑

母娘二代にわたり美女であるが故の悲運の果て、亡骸がこのシマに流れ着いたと伝えられている。奄美の伝説は、地元男性は野茶坊くらいで、後は流人や落人。ほぼ女性が主役と言っていい。女性(姉妹)が男性を守護するウナリ神信仰の島ということもあるだろうが、富や名声がなければ男は後世に名を残せないとも思える。だとすれば、島の男としては寂しいところだ。

青久。

確かに海と空は、いつまでも青くあるだろうと思うと、やはり少し切なくなった。

 

嘉徳

嘉徳集落

いまだ豪雨災害の爪あとも生々しい道を進み、嘉徳集落へ。

鍋加那の滝集落裏手の水源地には「鍋加那の滝」がある。鍋加那とは、島唄「なべ加那節」にも歌われる伝説の美女で、集落内に墓碑も現存する。その名に負けぬ、住用のフナンギョにも似た女性的で美しい滝だ。あ、また女性の伝説ではないか。

集落中央に位置する旧嘉徳小学校は、創作空間「ムンユスィ」として新たな生命を得ている。それ自体が絵画のような美しい空間には、母胎のような温もりを感じる。廃校が増えていく時代の流れは止めようもないが、数少ない活用事例の今後に期待したい。

また、支えになっているのは、このシマの歴史というか底力のようなものなのだろうと拝察した。

嘉徳遺跡は、現在のところ笠利の宇宿貝塚などと並ぶ奄美最古の遺跡群の一つだ。

奄美最古の遺跡群

およそ三千年前の縄文後期には、奄美には独自の文化を持った人々がいて、外部と交易しながら生活していたと想像できる。

嘉徳海岸

アダンの杜に守られた美しい海岸は、今やサーファー憧れの地となって中々に賑やかだが、全盛期の賑わいはこの比ではなかったはずだ。

節子-網野子間で、海岸線を振り返れば、各集落は思いがけないほど近距離に並んでいる。

節子-網野子間

太平洋岸がエネルギッシュだった時代を体感すべく、次回は海から攻めていこう。
乞うご期待-

これはボックスのタイトルです。

Profile

歩きすと

歩きすと とうだひでひととうだひでひと 1967年、鹿児島県名瀬市(現、奄美市)生まれ。筑波大学卒。第2学群比較文化学類にて宗教学専攻。卒業論文は『奄美のユタ神のコスモロジー』。研究継続を志して帰郷した後は、在野としてアカデミックな枠を超えた奄美研究に没頭し、その一環として奄美探訪を書き綴っている。大学在学中には男声合唱団メンネルコールに所属し、パートリーダー兼ソリストを務める。音楽嗜好はクラシック系歌曲からハードロックまで全般。最近は、地域活性化バンド「濱田洋一郎と商工水産ズ」の一員として「音楽のまちづくり」活動に取組んでいる。
また、25歳から始めた相撲競技では、職域相撲での優勝経験。県民体育大会での監督経験、全日本実業団及び西日本実業団への出場など、スポーツマンの一面も。奄美市職員。

この記事は平成23年8月発行のマチイロマガジン20号より転載しました。
掲載している情報は全て取材当時のものとなります。

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